The End Of Asia

─植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立

 

「過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ」。

田山花袋『一兵卒』

 「いかにもこの都市は中心を持っている。だが、その中心は空虚である」。

ロラン・バルト『表象の帝国』

 

日本近代文学の形成に関して、言文一致運動と国民国家確立と関連づけて論じられるが、国民国家や言文一致といったドメスティックな観点だけでなく、日本近代文学の誕生には、植民地支配が影響を与えている。国民国家として近代日本の体制が確立し、言文一致体が形成されるのは明治二〇年代であるけれども、日本近代文学の規範が確定するのは明治四〇年代である。その間、一八九五年(明治二八年)に日清戦争の勝利を通じて台湾を植民地とした後、急速に帝国主義化している。国民国家建設というドメスティックな状況からアジアで最初の帝国主義国家へと向かう過程に近代日本は移っている。国民国家としてだけではなく、近代日本が帝国主義体制を整備していくのと同時に、日本近代文学が自然主義文学や私小説を主流として形成されている。

言文一致運動は資本主義化や国民国家形成と不可分の関係にあるが、国語や標準語は必ずしもそのような関係にはない。これらの概念が近代日本の言語政策をめぐる特異さを強調させる。明治政府が近代的な国家建設の際に参考にしたドイツでは、一八九八年にはドイツ舞台発音として発音の標準化、さらに一九〇一年には正書法の統一化が試みられているものの、各地域に見られる文法上の違いは依然として残されている。また、アンシャン・レジームのフランスにおいては、一六三五年、アルマン・ジャン・デュ・プレジ・ド・リシュリューがアカデミー・フランセーズをフランス語の統一を目的に設立する。確かに、標準化への意志は感じられるものの、国語ではない。石黒魯平は、一九五〇年に発表した『標準語』の中で、標準語は「東京語を土台にして、能率的に、合理的に、情味的に、知性的に、倫理的に、それを高いものにして使おうと日本民族各員が追求する理想的言語体系」であり、現に普及している「共通語」と区別すべきだと言っている。神保格は、一九四一年(昭和一六年)に公表した『標準語研究』において、標準語を「東京の山の手の教養ある人々の言語」と定義しているように、一九四九年以前には、標準語という用語しかなかったけれども、戦前の標準語が帯びていた意味は、政治的には、石黒の定義しているものである。この標準語への意志が国語である。標準語を極端に志向した国語は国民国家形成には不可欠な発音や正書法の標準化とは異なり、そこには政治的意図が潜んでいる。

しかも、この国語は教育を通じて、「国民」に徹底化されていくだけではない。植民地の住民にも国語教育が推進されている。日本の植民地支配の特徴の一つとして、日本語教育への偏重がある。異言語や異民族に対する日本語の位置に関して、内地・植民地・満州国・占領下東南アジアという地域によって偏差があり、さらに日本語と諸言語の力関係について、さまざまな見解があるにもかかわらず、日本語普及は疑問の余地なく遂行され、日本語の脅威の下に晒される諸言語やその話者への配慮は欠落している。世界的に独立した後も旧宗主国の言語を公用語として使い続けているケースが少なくないのに対し、大韓民国では、その反発として、日本語の歌が公共の場に流れることを原則的に禁止している。帝国中央の施策として、一九四二年(昭和一七年)に官制公布された大東亜建設審議会の第二部会(文教施策)の答申「大東亜建設ニ処スル文教施策」がある。その中の「大東亜諸民族化育方策」には「現地ニ於ケル固有語ハ可成之ヲ尊重スルト共ニ大東亜ノ共通語トシテノ日本語ノ普及ヲ図ル」と記されている。ちなみに、「大東亜ノ共通語」という意味の場合には、政府・軍部・官僚は「国語」ではなく、「日本語」を用いる。同年二月、マレー半島を帝国陸軍第二五軍が占領すると、シンガポールを昭南特別市と改称して、昭南軍政監部が軍政を担当し、四月、各学校における教授用語を指示した「小学校再開ニ関スル件」を公布している。軍政監部は、その中で、マレー語学校ではマレー語と日本語、インド語学校ではタミル語と日本語、その他の学校では、華僑義勇部隊が占領に抵抗したという理由から中国語学校の再開を認めなかったため、マレー語と日本語とする決定を下している。イギリス統治下のマレー半島では、民族間の別学が原則とされ、マレー語学校・インド語学校・中国語学校・英語学校が並存している。英語学校はイギリス人入植者と現地の有力者の子供だけが通学できることになっていたが、優秀であれば、他の子供たちにも編入の可能性が残されている。英語学校以外ではほとんど英語教育を行っていない。それどころか、そもそも現地住民に対する教育に熱心ではない。イギリスは民族や宗教で住民をわけ、その間の対立を煽り、植民地を支配する政策を採用している。一九四三年三月に、第二五軍のスマトラ移駐に伴い、馬来軍政監部へと変わると、軍政監部は、七月に、「初等学校ノ名称及ビ教科ニ関スル件」を公布し、現地住民向けの学校の名称をすべて「普通公学校」に改めさせ、日本語を一年生から義務化するだけでなく、マレー語・タミル語・中国語の教授時間を週三時間以内に制限している。このように、イギリスの植民地支配に比べると、植民地での日本の言語教育は際立っている。

 

はじめの男は印度にわたる

仏陀の石鉢天然記念物

ピカピカ光らず真っ黒なので

よくよく見たらばメイドインジャパン

泣く泣くかぐや姫

月の出を見て泣きじゃくる

 

お次の男は蓬莱山へ

行きと帰りで千夜一夜

玉の小枝と思うたら

話も土産もみんなイミテーション

泣く泣くかぐや姫

月の出を見て泣きじゃくる

 

第三の男が中国船に

頼んだ衣は火ねずみ防火服

そこで火をつけ焼いてみたら

見る見るメラメラ灰と消えた

泣く泣くかぐや姫

月の出を見て泣きじゃくる

 

最後の男は燕を探す

今ならさだめし望遠レンズ

子安の貝をつかんだら

もっこの綱ぎれドシンと落ちた

泣く泣くかぐや姫

月の出を見て泣きじゃくる

 (河井坊茶『かぐや姫─吟遊詩人の唄』)

 

ただ、戦略的重要性による地域差はあるものの、東南アジアでは現地の言語への配慮を多少見せている。と言うのも、日本は占領の意義として近代化という成果を十分に示しえなかったからである。軍部の意図や戦略・戦況に左右されながら、各地域で一地域一言語という原則が立てられだが、宗主国によって近代化が伝えられていた東南アジアにおいて、日本は占領しても、近代化の成功を誇示できない。フィリピンでは、英語も当分の間使用を認めるという条件付きながら、タガログ語と日本語を公用語とする規定が出される。しかし、一九四三年のフィリピン独立後、日本語を公用語とする規定はなくなっている。また、オランダ領インドネシアでは、インドネシア語の教育と一緒に日本語を教える教育体系を指示している(インドネシア語は、戦後も、マレーシアを含めた周辺地域とのパワー・オブ・バランスによって形成されている)。もっとも、いずれのケースも、配慮は見せつつも、日本語教育を積極的に実施している。

 また、大陸侵略を進めていく過程で、ペーパー国家の満州国は日本化され、それに伴い、日本語の普及も強化されている。日本側は建国イデオロギーの一つの「五族協和」を言語政策でも実行し、一九三七年前後から日本語の地位を引き上げている。一九三八年の新学制において、三つの国語、すなわち満州語・モンゴル語・日本語の一つとして日本語を位置づけ、行政・司法・教育・通信などの国家運営の基幹部門で優位な位置を占める政策をとっている。これは満州国の傀儡性だけでなく、日本語の普及度・認知度が低く、こうした制度を用いなければ、日本語への権威が保てないためである。ウイグル文字から派生した満州文字で記す満州語はかつては中国で最も広く話され、十八世紀、清の乾隆帝が保存に力を注いだものの、現在では、ほぼ消滅の状態にある。満州国には、日本語で運営される中央と満州語や中国語、モンゴル語が使われる地方とが並存している。その乖離を解消する目的で、日本語の広範な徹底普及を一時的に放棄し、「満語カナ」という中国語をカタカナで表記する計画を実行している。このプランは、満州国民生部国語調査委員会によって研究され、一九四四年に公布されている。表記をカタカナにすることで低い識字率を向上させると同時に、カタカナに親しませることで日本語の学習を容易にしようという隠れた日本語普及のシステムでもあって、日本語の影響下に該当する地域の言語を置こうとする意図に基づいている。

東南アジアや満州だけでなく、占領地域に日本語を普及させる際、日本は標準語原理主義を前提にしている。軍部・政府は諸地域間の交流言語として、また日本との連関を保たせる目的で、日中戦争勃発以降実体化してきた「東亜共通語」としての地位を日本語に与える政策をとっている。それに伴い、表記法や表記文字も含めた基礎日本語の議論も、内地での日本語の整理の問題と関連して、活発になっている。普及を優先させるなら、より簡素化された日本語の方が効率的であろう。一九四三年の内閣情報局が三百語を選定した『ニッポンゴ』に見られる極めて単純化された日本語の場合であっても、それは純正日本語に至る前段階であり、非ネイティヴ・スピーカーで完結する日本語の形態を認めていない。アラビア語では、時代の変遷を経て多少の変化を受けているものの、書き言葉(フスハー)に手を加えることは『コーラン』の改変につながる理由から、認められていないが、話し言葉の変化は容認され、各地域で異なる話し言葉(アンミーヤ)が使われている。それに対して、表記の変更は国体への手入れに等しいといった論調がありながらも、簡易化の論議が可能だったのは、日本語の普及自体に植民地支配を正当化する役割を持っていたからである。東亜新秩序から大東亜共栄圏へと日本を中心とした新秩序体制を構築する際に、日本語は「東亜共通語」でなければならない。けれども、植民地の言語同化政策は国語調査会の系譜にある委員会が認定した標準語が正統な日本語であり、リンガフランカに伴う無意図的な変化やピジン化を最初から排除している。支配地域における使用言語は日本語であればよいのではなく、標準語でなければならないという帝国主義政策は、他国の場合と比較すると、執念にとりつかれている。

 こうした占領政策がとられたのは、日本語が植民地政策において特別の意味を持っていたからである。政治や司法、官庁、軍部が日本の帝国主義を正当化するために、国家的プロジェクトとして日本語に過剰な意味づけを行っている。日本語は、近代日本において、天皇制以上の政治的イデオロギーである。日本語の表記に関する問題は言語学ではなく、国内外の政治情勢と密接に結びついている。日清・日露の両戦争の勝利を通じて、台湾や朝鮮半島、中国大陸へと侵略を進めていく中で、漢字廃止の運動も盛んになり、加えて外地での日本語教育の問題から漢字を制限しようという動きが高まっている。ところが、昭和に入ると、極端な復古主義・国粋主義の立場からそれに抵抗しようという勢力が生まれる。教育の現場での方言の尊重という意見が内地では出ていたものの、植民地において、正しい日本語の確立と確実な教授が要請されていた理由から、標準語の絶対性は揺るがせない。大日本帝国は、言語の面でも、大東亜共栄圏の規範とならなければならない。不純な日本語では日本の帝国主義政策が不純ということになってしまう。一九〇二年(明治三五年)に政府によって設置された国語調査委員会は調査方針の一つにとして「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」をあげている。なるほど、言文一致に関しては、文学者が積極的にかかわっているように、民間主導で達成されているのに対して、標準語を目指す国語は、文学以外の領域で始まり、学校現場を通じて、広まっている。けれども、自然主義文学から派生したドメスティックな文学である私小説という特殊な文学ジャンルが日本近代文学の主流となっていく過程には、帝国主義政策が関連している。日本の国語政策が日本的帝国主義と不可分であるとしたら、日本近代文学はこの日本的帝国主義の産物である。それどころか、日本の帝国主義を強化する役割の一端を担っている。日本近代文学は、西洋の近代文学とは異なった方法で、植民地支配に荷担してきたのである。

 

しんきろう めざし

船は進む

幻の国へ

たとりつくため

 

墨絵の世界の

眠りを揺さぶるため

 

暁の星が

たったひとつ

まだ見ぬ世界に

輝いていた

墨絵の世界に

静かな夜明けがくる

(サディスティック・ミカ・バンド『墨絵の国へ』)

 

 一八六六年(慶応二年)、幕府開成所反訳方前島密は『漢字御廃止之議』を将軍徳川慶喜へ建白しているが、そこには言文一致運動だけでなく、国語国字問題、すなわち送り仮名・使用漢字の制限を中心とする日本語表記の問題のほとんどをすでに網羅している。

前島は、『漢字御廃止之議』において、漢字廃止のメリットについて、次のように請願している。

 

国家の大半は国民の教育にして、其教育は士民を論ぜず国民に普(あまね)からしめ、之れを普からしめんには成る可く簡易なる文章文字を用ひざる可らず、其深邃(しんずい)高尚なる百科の学に於けるも、其文字を知り得て其事を知る如き難渋迂遠なる教授法を取らず、渾(すべ)て学とは其事理を解和するに在りとせざる可らずと奉存候。

 

数が多く形も複雑な漢字を幼少の頃から学習するのは貴重な時間の無駄であり、国家的損失である。むしろ、仮名文字を国字と定めて新教育をする方が新しい学問や文明を吸収する余裕ができると説いている。後に、前島は、タイプライターの利便性をあげながら、仮名文字でなくとも、ローマ字であってもかまわないから、使用できる漢字の制限などせず、とにかく漢字を廃止すべきだという主張に転換している。

この提言は幕府から無視されるが、欧米化による中華文明からの断絶を目標とする明治に入り、近代化と国民国家建設が始まると、にわかに表記の問題は脚光を浴びる。漢字の廃止は中国という父を殺す最大の目的が秘められていたけれども、表音文字を用いる西洋諸言語の表記法が広く知られるようになると、漢字と二種類の仮名を合わせて表記する日本語の表記をできる限り簡素な表記法に改善する必要性が主張されるようになる。これは日本に限定した動きではない。漢字を使用している地域で、近代化における漢字の不都合がつねに論議され、各地域で簡略化した漢字が考案されている。革命後の北京政府も、二〇%の識字率の向上を目指し、簡体字に踏みきっている。五五の少数民族を抱え、おまけに方言では漢民族さえも通じ合えない現状を克服するために、共通の言語と文字表記は欠かせない。しかし、漢字の持つ中華文化圏の統一性は近代化によって解体する。漢字はアジア的停滞あるいは反民族自決の象徴と見なされている。北京政府は、今や、この簡体字を他民族共存の基盤に考えている。彼らは漢字を東アジアにおける主導権の確保の一つとしてその国際的枠組み作りに熱心である。簡体字のみならず、繁体字の国際文字コードへの取り組みも最も積極的だ。他方、台湾政府は自らが中華文明の正統であるとして旧漢字、いわゆる「正体字」の使用を堅持してきたが、民主化以降、独立運動と絡んで、漢字が政治問題化している。その上、口語として使われてきた台湾語の表記に関して標準中国語、いわゆる「国語」との間で一貫性が失われている。表音であれ、表意であれ、表語であれ、文字をめぐる論争は尽きない。表記をすべてひらがなやカタカナ、またはローマ字によって行うべきだという意見があり、一八八三年(明治一六年)に「かなのくわい」(現カナモジカイ)、一八八四年には「羅馬字会」(現日本ローマ字会)が創立されている。西周や田口卯吉らは表記のローマ字化を提案し、清水卯三郎はひらがな化を主張している。

他にも、ヨーロッパの各種アルファベットを参考にした新しい表音文字を新国字とするような提案がなされ、また、縦書きに代わって、横書きを正規にすべきだという主張のみならず、右横書きではなく、左横書きの合理性も提唱されている。こうした動きは、戦前期全般に渡って、何度か盛衰を繰り返している。同音異義語が多いこともあって、それぞれに工夫の跡は見られる。古代エジプトのヒエログリフで、同音異義語を区別するのに、発音しない決定詞を用いていたが、そういった試みもなされている。

文字改良論者は脱亜入欧が主眼だったため、エスペラント語のような新たな言語の考案にも向かわなかっただけでなく、アジアやアフリカの表音文字にはほとんど関心を持っていない。エチオピアのアムハラ文字に関する知識は乏しかったとしても、一四四六年、李朝の世宗によって創案されたハングルは一つの音に一つの文字が対応する世界史的に最も完成された表音文字であるにもかかわらず、ハングルを参考にする議論は湧き上がっていない。それどころか、朝鮮半島を植民地にした後、日本は日本語を朝鮮人に強制している。

戦後、経済が発展するにつれ、契約書を筆頭にして書類作成などで特に見られる日本語表記の非効率性の問題が再燃するが、一九七九年、ワード・プロセッサーの開発により、解決する。日本語の表記において漢字が主役であり、仮名は脇役である。漢字は筆という筆記用具がもたらしたのであり、筆から脱却し、鉛筆やペン、さらにはタイプライターを導入するために、漢字の廃止が唱えられている。文法は筆記用具の産物であることをワープロ開発が明らかにしている(明治期の言文一致運動は、記述においては、鉛筆やペンの導入によって可能になっている。鉛筆は、筆に比べて、個人差が出にくいため、「国民」の生産にふさわしい。けれども、記述と印刷の違いは歴然として認められる。また、一九八〇年代以降の新言文一致運動は、ワープロやコンピューターの普及により、実現化する。それは真の意味で「大衆」を体現している。「国民」が成人男性を指すとすれば、「大衆」は成人女性である。新言文一致が女性の語り口に基づくのは当然であろう。電子化は個人差が消失するだけでなく、記述と印刷の違いも、TeXのようなソフトの考案に伴い、無効となる)

人為的な文字改革は必ずしも国民国家政策に限らない。聖メスロプ・マシュトツは、四〇五年、ギリシア文字を参考にアルメニア文字を考案し、その後、聖書のアルメニア語を完成させている。また、一二六九年頃、モンゴル語を記す目的で、中国を支配下にしたフビライ・ハーンがサキャ派ラマ教の法王パスパに命じて、チベット文字を原型とする縦書きのパスパ文字を制定している。モンゴル語では、従来、アラム文字──アラム語は、現在でも、シリア・アラブ共和国のマアルーラなどで話されている──から派生したソグド文字を基礎とするウイグル文字を参照して、チンギス・ハーンがつくったモンゴル文字が使われていたが、フビライの死後、次第に、パスパ文字は儀式用にのみ限定されていき、モンゴル文字が再び用いられるようになる。中華人民共和国の内モンゴル自治区ではモンゴル文字が使われているものの、一九四一年、モンゴル人民共和国(現モンゴル国)はキリル文字を採用したけれども、一九八〇年代末の民主化の動きと共にモンゴル文字復活の運動が広がっている。つまり、文字の改革は外部との接触によって生じるのである。

前島は、『漢字御廃止之義』の中で、「松平」という字に「マツダイラ」や「マツヒラ」、「マツヘイ」、「シヤウヘイ」、「シヤウヒラ」などの読み方があり、漢字を見ただけではどう読んでいいのかわからない「世界上に其例を得ざる奇怪不都合なる幣」と言っている。これは漢字全般ではなく、日本語における漢字の特徴である。中国語や朝鮮語では一つの漢字の読みは一つしかない。他方、日本語では一つの漢字に対応する読みは不特定である。日本語における漢字は、前島によれば、朝鮮半島や中国大陸と比べても、非効率極まりない邪魔者であり、抹殺しなければ日本の将来はないというわけだ。

 確かに、東アジアの停滞の原因を漢字に求める認識は当時のヨーロッパ人の間では強い。前島も、彼らの意見を取り入れて、漢字の廃止を訴えている。しかしながら、近代化に文字改革がつきまとうのは文字が帯びる過去と決別するためである。トルコ共和国建設の際、ケマル・パシャは、政教分離する目的で、アラビア文字からラテン文字へと公用の文字を変更している。アラビア文字もラテン文字も表音文字であり、この文字改革は表音文字の効率性ではなく、文字が代表する文化が問われたのである。アラビア文字はイスラム文化であり、ラテン文字は近代化を意味する。近代化は過去との決別と西洋近代文明の受容であり、文字改革はその一例である。

使用する文字の変更は、その文化と他の文化との諸関係の変換につながる。表音文字を採用する場合、発音を他の言語と比較して、分析し、新しい規則を作る必要がある。五十音表を元にして、ラテン・アルファベットを対応させれば、日本語のローマ字表記ができるわけではない。対外的な必要性から、一九三〇年(昭和五年)から三六年に渡って、臨時ローマ字調査会が日本語のローマ字表記に関する標準化を試みて、内閣訓令によって日本式を元にして訓令式を公布している。ところが、五十音表を優先させ、「ツ」を「tu」とするなど発音に対応していない部分があり、当初の目的に反している。ヘボン式や日本式、訓令式、新訓令式などローマ字の表記は現在まで統一されていない。コンピューターのキーボードのローマ字変換は、それぞれの方式が混在し、さらに新しい規則が加わっている。日本語は、明治まで漢字を採用しているように、中国語との関係が強かったが、ラテン・アルファベットを使う場合、今度は別の言語と強い関係を構築することになる。「chi」を「チ」にするのか、あるいは「キ」なのか、それとも「ヒ」、または「シ」と読むのか、まったく使わないのかは参考にする言語によって決まる。黒船ショックから開国に応じたせいもあって、日本語のローマ字表記には英語が最も影響を与えている。江戸時代、蘭学者はオランダ語を使い、「おてんば」や「ポン酢」、「半ドン」、「どんたく」などオランダ語に由来する単語も日本語の語彙には少なくない。しかし、明治に入ると、政府はオランダ語学習の機会を公教育から一掃してしまう。一八七二年(明治五年)、駐日オランダ大使はオランダ語を官立の学校で教えるように要望書を出したけれども、政府はこれを却下している。明治維新に踏みきる情報が蘭学者からもたらされていたにもかかわらず、江戸幕府と密接な関係にあった理由から、オランダの言語は官立の教育現場にはふさわしくないと判断している。その代わり、医学用語がドイツ語に基づくように、外国語は特定分野と結び付くようになる。外国語の学習も政治的配慮から生じているのであって、日本語のアルファベット表記も政治的思惑が入り込まざるを得ない。

 

葡萄酒を飲もうよ

果物の酒を

今日はどんたくの日 旗立てて

ああ愉快だねえ 街をねり歩こう

 

異人さん達はね 日曜日と言って

喇叭鳴らして 太鼓打ち

歌をうたってのんきなものさ

 

メリケンさんだよ あの赤髭は

大きな陽傘を さしながら

ああ愉快だねえ 街をねり歩こう

カピタン屋敷の大きな庭じゃ

老いも若きも着飾って

踊り廻るよ日暮れまで

 

それがどんたく お祭騒ぎ

それがどんたく お祭騒ぎ

それがどんたく お祭騒ぎ

七日に一日は 仕事もお休みさ

(サディスティック・ミカ・バンド『どんたく』)

 

 前島は漢字廃止に関してさまざまな正当化を列挙しているが、実際には、それらは身分制に基づく封建社会から個々人が相互に平等な立場で自由に商品を交換し、労働力という商品を持った労働者が自由に移動できる資本主義社会への移行を反映している。前島は、一九二〇年(大正九年)に『将来の国字問題(漢字廃止と二十年)』の中で、「仮りに制限しても金持にこれだけの金を使へといふやうなもので、有れば使ひたいのは当然である。気に入つた骨董品があれば買ひたくなると同じく、知つてゐる文字があれば其れを使ひたいのは止むをえぬ事である」と経済的な比喩を用いて漢字制限論を批判している。国民国家制は資本主義の発達に伴う市場経済によって形成された均質的な経済圏である。言文一致運動において効率性が問われているように、前島には資本主義的価値観が浸透している。

前島は、『漢字御廃止之義』において、後の文学における言文一致についてもそうした価値観から言及している。

 

国文を定め文典を制するに於いても、必ず古文に復し「ハベル」「ケル」「カナ」を用ひる儀には無御座、今日普通の「ツカマツル」「ゴザル」の言語を用ひ、之に一定の法則を置くとの謂(いひ)に御座候。言語は時代に就て変転するは中外皆然たるかと奉在候。但、口舌にすれば談話となり、筆書にすれば文章となり、口談筆記の両般の趣を異にせざる様には支度事に奉存候。

 

 前島の言文一致は効率性という価値観から導き出されているが、日本語の言文一致運動は、前島の段階で、すでに活用語尾に着目されている。日本語は活用語尾によって、対他関係が表象されるため、身分制社会から近代社会へと移行した場合、新たな対他関係が生じてくる以上、それに対応する新しい活用語尾が不可欠となる。一八八六年(明治一九年)、物集(もずめ)高見(たかみ)が『言文一致』を出版し、次第に漢字廃止論から言文一致論へと議論の主眼が移っていく。欧米の近代文明を輸入して、普及させるには、書き言葉を話し言葉に近づけて平易にしなければならない。言文一致運動を通じて、文末を「だ」、「です」あるいは「である」のいずれに決めるという議論が続いたが、二葉亭四迷の主張した「だ」が最終的に小説、尾崎紅葉が『二人女房』(一八九一−九二)や『多情多恨』(一八九六)で使った「である」は批評で主流になっている。また、山田美妙が『胡蝶』(一八八九)などで示した「です」は、「ます」と並んで、話しかける相手が目上もしくは見知らぬ人である場合に用いられる丁寧語に区分され、主に、手紙の文体として定着する。『胡蝶』が平家の滅亡を描いているように、「です」は現実の人間関係では丁寧に話す必要があるとしても、平等な個人の関係を表象するには必ずしも十分ではない。当然、言文一致は日本特有の運動ではなく、資本主義もしくは国民国家体制に突入した際、起こり得るのである。

一九〇〇年(明治三三年)、帝国教育会内に前島密を座長とする言文一致会が結成され、貴族院・衆議院の両院に「請願」を提出している。その中で、言文一致の必要性を「国家ノ統一ヲ固クシテ国勢ノ伸張ヲ助ケ国運ノ進歩」と関連付け、「音韻文字」の採用が望ましいと提言している中央集権的支配を円滑にすすめるために、標準的な表記法を確立する必要がある。一九〇二年、国会に国語調査会が設置される。ここでも、「音韻文字」の採用を基本方針とし、脱亜主義の色彩が強い。国語調査委員会は基本方針の第二項に「文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト」、基本方針に付随して「普通教育ニ於ケル目下ノ急ニ応センカタメ」として六項が掲げている。「現行普通文体ノ整理ニ就キテ」とあるように、文章については言文一致体を目標とし、普通文体の整理が現実の問題としている。国語調査会以来、文字・仮名遣い・文章・標準語の改革や創作が目標とされながらも、国の機関で具体的に論じられ、施策が講じられてきたのは文字と仮名遣いが中心である。学校教育の現場で、国語調査会以前には、試行錯誤が続けられている。小学校では、最初に、ひらがな・カタカナを学び、次に、それを使った文章を書き、徐々に漢字を交えた文章へと進むコースが次第に定着する。その過程で漢字制限や仮名遣い改定が問題となり、文部省は何度となく改革案を提案・撤回を繰り返しているのに対して、文体においては、言文一致体に対する表立った異議はなく、教育令・小学校令やそれに伴う教科書などの中で微妙な変化を重ねたにすぎない。教材には談話や会話文も取り上げられ、一般に普及し始めた言文一致体も、学校教材を通して、標準的な書き言葉の地位を獲得する。普通文は言文一致体に吸収されていき、口語文が新聞雑誌などでも主流となるにつれ、言文一致体という用語も取り上げられなくなっている。

 

シルエットや影が革命を見ている

もう天国の自由の階段はない

 

Silhouettes and shadows watch the revolution

No more free steps to heaven

It's no game

 

俺現実からしめ出され

何が起こっているかわからない

どこに教訓はあるか

人々は指を折られている

こんな独裁者に卑しめられるのは悲しい

 

I am barred from the event

I really don't understand the situation

And it's no game

 

Documentaries on refuges

Couples ' against the target

Throw the rock upon the road and

It breaks into pieces

Draw the blinds on yesterday

And it's all so much scarier

Put a bullet in my brain

And it makes all the papers

 

新聞は書きたてる

 

何人の記録映画

標的を背にした恋人たち

道に石を投げれば

粉々に砕け

昨日に蓋をすれば

恐怖は増す

俺の頭に弾をぶちこめば

新聞は書きたてる

 

So where's the moral

People have their fingers broken

To be insulted by these fascists - it's so degrading

And it's no game

 

Shut up! Shut…

(David Bowie “It's No Game (Part 1)”)

 

明治維新は帝国主義的列強に対する経済的・軍事的な遅れに危機感を抱いた下級武士と宮中貴族によるクーデターである。革命ではない。彼らは幕藩体制を終わらせることが目的であり、それ以上のヴィジョンを必ずしも持っていない。外圧に対抗するために、国内改革の必要性を感じていたのであって、国内の政治的・経済的・文化的状況から生じている諸問題の改革は二次的な要件と見なしている。日本が植民地化ないし半植民地化されなかった理由は大きく二つある。一つには、インド亜大陸や東南アジア、中国大陸で欧米の植民地支配に対してすでに激しい抵抗運動が起きていたことにより、列強が日本に到達できなかった点であり、もう一つには、一八五〇年代以降、欧米諸国間ならびに内部で紛争・内戦が絶えないため、抑止力が働いただけでなく、支配する余力がなくなっていた点があげられる。支配者階級の序列が入れ替わっただけで、民衆は完全に取り残されている。明治維新はブルジョアジーやプロレタリアートとも無縁であり、体制の変換が民衆の間での必然性が希薄だったため、戦前を通じて、多くの場合、近代化=西洋化は権力主導で行われている。しかも、彼らは変革という行為自体に目的を求め、何を、いかにして、どのような方向に変えていくのかを問わない主観主義的傾向があったが、それは戦後も続いていく。

幕藩体制という封建的軍政に代わって、新しい軍政の下、民衆の間から自由民権運動という民主化要求が起き始める。自由民権運動が隆盛を極める明治一〇年代、民主化運動を鼓舞する戯作・翻訳・政治小説が流行している。言文一致運動はこの政治の動きと密接な関係にある。自由民権運動が沸き起こると、演説という政治行動が街頭で見られるようになる。江戸時代には演説という行為はなかったため、それにふさわしい話し方や言葉が必要になる。同時に、演説を伝えるプリント・メディアの方でも、演説を話された言葉のまま字にしたのでは、臨場感を欠くので、新たな文体を模索するようになる。国民国家はプリント・メディアの体制である。

国民国家形成は為政者側が一方的に民衆へ政策を押し付けて実現したわけではない。民衆側からも積極的な。働きかけがあったのも事実である。エ容赦の折衷が国民国家を結果的に達成したのである。

一八八四年(明治一七年)、日本に入って間もない速記を使って、三遊亭円朝が『怪談牡丹灯籠』という速記本を発表している。円朝の与えた衝撃は大きく、文学者もこの新たな動きに呼応する。二葉亭四迷は、『余が言文一致の由来』によると、小説を書くための新たな文体について坪内逍遥に相談すると、「君は円朝の落語を知つてゐよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うか」とアドヴァイスを受けている。

二葉亭は一八八七年(明治二〇年)に刊行された『浮雲』第一編を円朝の強い影響が見える次のような文体で綴っている。

 

 寧ろ難面くされたならば食すべき「たのみ」の餌がないから蛇奴も餓死に死んで仕舞ひもしやうが憖に卯の花くだし五月雨のふるでもなくふらぬでもなく生殺しにされるだけに蛇奴も苦しさに堪へ難ねてかのたうち廻ッて腸を嚼み断る……

 

 ここは、第一編第二回で、文三のお勢への思いを描写している部分である。「ふるでもなく」の「ふる」は雨が「降る」と主人公内海文三をお勢いが「振る」の掛詞であり、「卯の花くだし五月雨」はその序詞である。二葉亭だけでなく、山田美妙も言文一致体で作品を書く際、円朝の落語を参考にしているように、最初期の言文一致体は円朝の文体のヴァリエーションであるが、これは近代文学の修辞法ではない。夏目漱石は、一九〇六年(明治三九年)になっても、『自然を写す文章』において、「今日では一番言文一致が行われて居るけれども、『である』『のだ』とかいふ言葉があるので言文一致で通つて居るけれども、『である』『のだ』を引き抜いたら立派な雅文になるのが沢山ある」と記している。『浮雲』第一編の文体は活用語尾を変えれば、「立派な雅文になる」。その理由は、特に、語り手が登場人物に対して突出している点に求められる。文明開化にあった登場人物=語り手=読者の関係を再検討する必要がある。近代文学を書くには、修辞法も神の死にふさわしくなければならない。

 二葉亭は翌年に『浮雲』第二編、その次の年には第三編を刊行していくが、第二編以降では次のような文体で書いている。

 

 お政の浮薄、今更いふまでも無い。が、過まッた文三は、──実に今迄はお勢を見謬ッてゐ今となッて考へて見れば、お勢はさほど高潔でも無(ない)。移気(うつりぎ)、開豁(はで)、軽躁(かるはずみ)、それを高潔と取違へて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧(はず)かしいかな、文三はお勢に心を奪はれてゐた。

 

これは第三編第十六回における文三の内省をめぐる記述であるが、円朝の影はもはや見られない。言文一致体は余情に乏しいという反対意見が出たように、語り手が登場人物のスポークスマンになり、修辞法が近代文学の範疇に属している。しかも、二葉亭は『浮雲』第一編を主に現在形で書いているのに対して、ロシア語で書いた後、日本語に翻訳した第二編では過去形を中心に使っている。こうした試みは、二葉亭において、近代文学の用語として形成された近代ロシア語の翻訳によって初めて可能になっている。

 

俺の車にゃ誰も乗れぬ

命がけのレース

俺の車にゃ誰も勝てぬ

凄いスピードを出す

う〜む最高!

言うことなしだぜ

こりゃパワーもあるし

タイヤも太いし全部ある

愛してる 必要だ 首ったけ

う〜 激しい嵐

大丈夫 抱いてやる

俺ら 高速道路の星

(王様『高速道路の星』)

 

二葉亭には近代文学の修辞法や文法がまだ内面化されていなかったため、ロシア語で書かなければ、それを描くことができない。『浮雲』の段階では、その修辞法も文法も手探りの状態であって、未完成である。『浮雲』第二編と同じ一八八八年(明治二一年)、二葉亭は、イヴァン・セルゲイヴィチ・ツルゲーネフの『猟人日記』を翻訳し、『あひゞき』として発表している。国木田独歩が言っているように、『あひゞき』は『浮雲』第一編以上に当時の文学者に影響を与えている。国木田独歩の『武蔵野』(一八九八)には、実際、この作品の自然描写に負っている記述が少なくない。『あひゞき』の翻訳を通じて、二葉亭は日本近代文学の修辞法や文法の基礎を確立していく。

しかも、『あひゞき』は、一八八八年に雑誌『國民の友』に発表された後、一八九六年(明治二九年)、改訳した上で、単行本として刊行されているため、二つの翻訳には次のような違いがあり、この改訳が以降の日本文学に対して決定的な規範となっている。

 

氣の無さゝうな眼を走らしてヂロリと少女の顔を見流して、そして下に居た。

「待ッたか?」ト初めて口をきいた、なお何處をか眺めた儘で、缺伸をしながら、足を揺かしながら「ウー?

少女は急に返答しえなかッた。

「どんなに待ッたかせう」と邃にかすかにいッた。

(初訳)

 

氣の無さゝうな眼を走らしてジロリと少女の面を見て、其處へ座つた。

「待つたか?」と矢張何處を他處(よそ)を眺めながら、足を揺(うご)かして缺び雜(まきり)に云ふ。「ウー?

少女は急に返答を爲得(しえ)なかつた。

「どんなに待つたでせう」と漸(やうや)う聞こえるか聞こえぬ程の小聲で云ふ。

(改訳)

 

 前者が逐語的な訳であり、時制が過去形に統一されているのに対して、後者はこなれていて、過去形と現在形が混在している。西洋の近代文学作品は時制について非常に厳密であり、ロシア語の原文は過去形で統一されているけれども、二葉亭が過去形に訳した部分は完了体、現在形の部分は不完了体に相当する。ただし、これはすべてにあてはまるわけではなく、あくまで原則的な傾向である。ロシア文化はフランス文化から強い影響を受け、フランスの近代小説が単純過去で統一されている慣習に従い、ロシアの近代小説も過去形で時制が統一されている。ロシア語の動詞では、不定形から派生する変化形は過去形とそれ以外にわけられ、時制の点ではフランス語に比べると単純であって、過去形と現在形・未来形である。しかし、フランス語や日本語と違い、体の点では、完了体と不完了体があり、スラブ語のネイティヴ・スピーカー以外には、この区別は難しい。

中澤英彦は、『はじめてのロシア語』の中で、ロシア語における完了体と不完了体の違いについて次のように説明している。

 

完了体というのは「読んでしまった、読み終えた、読んでしまう、読み終える」のように、動作を完了・終了し目的・結果を達成した、あるいはするものとして積極的に示そうとする形です。

それに対して不完了体は、完了・終了以外の場合、つまり「読んだ、読んだことがある、読んでいた、何度も読んだ」などのように、経験、進行中・過程、状態(反復)として示そうとする形です。

 

二葉亭はロシア語における体の時制に対する優先性を認識し、完了体と不完了体のニュアンスの違いを日本語に訳す目的で、現在形と過去形が混在する文体を選択した結果、体と時制が混在してしまう。ところが、この翻訳が日本文学に別の効果をもたらすことになる。過去形が原則であり、そこに現在形を挿入したため、現在形に作者の主観的な認識が帯びるようになってしまったのである。

中澤英彦は、『はじめてのロシア語』の中で、ロシア語における時制と体について次のように述べている。

 

時制とは、話したり書いたりして時点、あるいは、たとえば「それは二日前のことであった」などのように、ある基準の時点より前か(過去)、同時か(現在)、後か(未来)によって区別されるものです。いわば、物理的・客観的な区別といえるでしょう。

それに対して体は、動作を話し手や書き手がどう見えるか、どう見たいかによって区別される、いわば心理的主観的な区別です。

程度の差こそあれ、体的見方というものはどのような言語にもありますが、ロシア語の場合、まず体の枠組があり、次に時制というものが考えられます。時間を表現するのに、時制よりも体の方が比重が高いのです。

 

ロシアの近代小説は完了体と不完了体が混在していても、時制においては統一されている。他方、近代文学の日本語は、聖書ヘブライ語などと同様、時制の一致に関してそれほど厳しくないけれども、過去形が中心であり、現在形で表現されると、そこに「動作を話し手や書き手がどう見えるか、どう見たいか」が顕在化する。

一九一〇年(明治四三年)に発表された志賀直哉の『網走まで』にそれを典型的に表わしている次のような記述がある。

 

男の子は不承々々うなづく。母は又それを出して子の手へ四粒ばかり、それをのせた。「もつと」と男の子が云ふ。母は更に二粒足した。

 

日本語では体は概して強くない。日本の作家は、その代わりに、時制的な見方と体的な見方を時制によって区別して表現するようにしている。志賀直哉は母親の動作に対して過去形を用い、即物的に記し、子には現在形を使い、「不承々々」が示している通り、「動作を話し手や書き手がどう見えるか」が描写されている。過去形は時制的な見方、現在形は体的な見方を具現化している。

近代ロシア小説はロシア貴族を父に、エチオピア貴族を母に持つアレクサンドル・セルゲイヴィチ・プーシキンによって始まる。近代ロシア語は、プーシキンによって、近代文学の用語として確立される。ロシアは十七世紀までヨーロッパとの交流に乏しかったが、一六八二年に即位したピョートル大帝が行政組織から生活様式に至るまでヨーロッパ化を促進した結果、十八世紀末にはヨーロッパでも有数の強国に成長している。その間に、文学は市民書体として確立し、ヨーロッパ式の書物の印刷が始まっている。さらに、ロシアはナポレオン戦争を通じて覚醒する。ロシア軍ではなく、冬将軍に敗退したナポレオン軍を追走して、パリに入った青年将校は資本主義化するヨーロッパの市民社会の現状に直面し、ロシアの後進性にショックを受ける。彼らは十二月党(デカプリスト)を結成し、ツァーリズムの打倒、すなわち農奴制の廃止、議会政治の実現、憲法に基づく立憲制国家の樹立を掲げ、官僚による専制政治を強行するニコライ一世の即位に反対して、一八二五年十二月、武装蜂起するが、一日で鎮圧されてしまう。プーシキンはこのデカプリストに共感している。当時のロシアの上流階級では、普段はフランス語を使い、召使を話す時に、ロシア語を用いるというのが常識であり、ロシア語による小説の執筆は好ましくないと考えられている。プーシキンは、それに対し、ヨーロッパの言語と民衆の言葉、教会の古語を統合し、ロシア語による本格的な近代小説を提案する。彼は古典や同時代のヨーロッパ文学を巧みにロシア文学に置き換えている。ロシアの近代小説は国民国家体制ではなく、資本主義の勃興を背景に、ロシアの後進性をまず文化によって克服している。

プーシキンが近代ロシア語を作ったとすれば、近代日本語の基礎は二葉亭が築いている。けれども、二葉亭は、『あひゞき』の両方の訳とも、代名詞を使っていない。代名詞の使用は身分制廃止に伴う資本主義化に不可欠である。近代化によって、地縁・血縁によって構成された「世間(Gemeinschaft: Community)」ではなく、「社会(Geselschaft: Society)」が到来しつつあるが、二葉亭にはまだ完全に浸透していない。

『浮雲』よりやや遅れて、一八九〇年(明治二三年)に発表された森鴎外の『舞姫』は一人称で記され、語り手と主人公が同一である。一人称は近代の出発、すなわち身分制から解き放たれた個人の登場に対応するが、三人称は他者による規定、すなわち市場経済の出現に呼応する。大量に発行された国債の円滑な取引を実現すると同時に、株式会社の資金調達の手段を提供する目的で、明治政府は、一八七四年(明治七年)、株式取引条例を発布したけれども、江戸時代に見られた投機的な取引を禁止したため、政府の思惑は外れてしまう。そこで、政府は、一八七八年、新たに投機的取引も緩和した株式取引所条例を制定し、東京株式取引所(現東京証券取引所)と大阪株式取引所(現大阪証券取引所)を設立する。確かに、一八八一年の段階では取引所株と国立銀行株などわずか九銘柄を扱っているにすぎず、取引の中心は国債だったが、一九〇一年(明治三四年)には百九銘柄、一九三一年(明治六年)に至ると千六十五銘柄にまで取扱銘柄が増加している。ただし、戦前の取引所の取引は、先物取引で用いられる差金決済による定期決済が中心で、しかも勘に頼る業者・投資家がほとんどであったため、投機色が強く、また、証券の民主化も進んでいない。『舞姫』が発表されたのはちょうど市場経済が確立されていく時期にあたる。この頃の鴎外の文体は近代化が進みながらも、語尾に言文一致体を採用していないように、身分制を完全には払拭できないでいる現状を体現している。

 鴎外は、『舞姫』において、次のような文体を用いている。

 

 げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感觸を、筆に寫して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

 

 鴎外は、主語や活用語尾を別にすれば、近代文学の修辞法を使っているものの、漢文を引きずっている。と同時に、ドイツ語に影響を受けた鴎外には、二葉亭のような体をめぐる苦悩は深くない。彼は体的見方を強調する必要はなく、時制を統一している。日本近代文学の文体は大きく文語体と口語体に分類される。前者は和文体と漢文体にわけられ、それらには和文体・雅俗折衷文体・和漢混合文体・漢文訓読体の四種類が含まれる。和文体は、平安時代の和文体から発展してきたとされ、明治中期まで使われている。樋口一様の『たけくらべ』(一八九五)が代表的な作品である。雅俗折衷文体は中世以来の和漢混合文に、俗語が交じっており、主として、会話の部分に俗語が用いられているもので、泉鏡花の『夜行巡査』(一八九五)に端的に示されている。この『舞姫』に典型的に見られる和漢混合文体は和文体と漢文訓読体が混合した文体で、和文脈で漢語を入れることが多い。漢文訓読体は明治期の評論に多く用いられる漢文の書き下し文のような文体であり、体言止や対句を使う。先の二つの文体は和文体、漢文訓読体は漢文体に属し、和漢混合文体は和文体と漢文体の混合である。

 

君の言うことなどどうでもいい

君のことなどどうでもいい

Sunday morning she is gone

Sunday morning no one left

 

昨日のことなどもう忘れた

昨日のことなど遠くのこと

Sunday morning she is gone

Sunday morning no one left

 

この世のこととは思えない

この世のこととは思えない

この世のこととは思えない

この世のこととは思えない

(Dunkelziffer ”Sunday Morning”)

 

口語体は言文一致体・欧文体・口語文体の三種類が含まれる。言文一致体はすでに述べてきた通りであり、口語文体は今日使われている文体である。欧文体は国木田独歩の文体が代表であって、欧文体は欧文の翻訳の文体を取り入れ、抽象名詞を主語としたり、修飾部が長いという特徴を持っている。

国木田独歩は、『浮雲』第二編発表から十年後の一八九八年(明治三一年)に公表された『武蔵野』をその欧文体で次のように書き始めている。

 

「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。

 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。

 それで今、すこしく端緒(たんしょ)をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣(ししゅ)といいたい、そのほうが適切と思われる。

 

『武蔵野』の文体は円朝の落語や漢文、すなわち過去から解き放たれ、欧米の文学の影響下にある。国木田独歩は文政年間の地図の話から始めているが、江戸時代、武蔵野は「古戦場」であっても、決して名所ではない。その上、近代化に彩れた場所でもない。しかし、平凡で、誰も顧みないような寂しい無意味さがあるだけだからこそ、語り手は武蔵野という「風景」を選ぶ。その意味に対して無意味を選択する点において、歴史や現実以上に、自意識が優位になる。歴史にも現実にも冷淡に振舞い、「風景」を発見するとき、彼は「内面」を確立している。柄谷行人の『日本近代文学の起源』によると、「風景とは一つの認識的な配置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう」のであって、しかも、「風景」は「孤独で内面的な状態と緊密に結びついている」。「内面」は世界を鳥瞰する立場を獲得するため、発見する「風景」は歴史や現実から断絶されなければならない。そこには自己完結性があるが、それも歴史や現実の産物にすぎないことを「内面」は隠蔽しようとする。

 言文一致体から欧文体の間に日清戦争、欧文体から口語文体までの間には日露戦争がそれぞれ起きている。日清戦争から日露戦争の間、国木田独歩や正宗白鳥のロマン主義的な作品が発表されている。これは、一九八〇年代、世界第二位の経済大国になった際、ロマンティック・アイロニーに基づいた村上春樹の作品が流行した状況と似ている。父殺しとも言うべき日清戦争の勝利は、日本「国民」の間に、中華文明に対するコンプレックスを払拭しただけでなく、中華文明への蔑視さえ育んでいる。軍事力の勝利がすべての領域における勝利と錯覚され、脱亜主義が支配的になる。確かに、日清戦争による国際的地位向上に伴い、一八九四年(明治二七年)、一八五八年(安政五年)の安政五カ国条約のうち、領事裁判権が廃止されている。けれども、この時点では入欧の意識はまだない。安政五カ国条約の最後の懸案だった関税自主権を獲得するのは一九一一年(明治四四年)である。一八九五年、日本はロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉に屈服し、三千万両の賠償金と引き換えに、遼東半島を清に変換する。国木田独歩の『武蔵野』の欧文体には歴史との断絶と同時に欧米へのコンプレックスが見られる。日露戦争によって、初めて、日本「国民」の中に入欧の意識が芽生える。ロシアは日本近代文学の源泉であり、ロシアへの勝利は二度目の父殺しを意味する。二度の父殺しを経験した後、日本近代文学は過去から断絶され、口語文体が日本近代文学の主流として確立していく。

一八九四年に始まった日清戦争に勝利した日本は、翌年、下関で開かれた講和会議で調印された下関条約により、遼東半島や台湾などを清から割譲され、初めて植民地を手に入れる。一八九五年五月に台湾総督府が開設され、海軍大将の樺山資紀(すけのり)が初代総督に就任する。統治機関として台北に総督府を置き、総督・民政長官(後に総務長官)の下、内務・財務・警務などの内局、法院・専売局・交通局といった関係機関、さらに地方行政機関を整備する。総督には一八九六年制定の台湾総督府条例により陸海軍の大将・中将が就任し、軍事・行政の全権を掌握している。総督には法律と同じ効力を持つ律令を発布する権限も与えられ、警察権・出兵請求権など絶大な力を保有する総督府は、この強権によって以後五十年に渡って台湾を支配していく。

一八九五年五月二五日、清朝の台湾巡撫(じゅんぶ)であった唐景ッや劉栄福らは台湾民主国の独立を宣言し、日本の統治に抵抗したが、日本軍によって十月までに制圧されている。民衆による武装蜂起もおきたが、一九〇二年に林少猫らの漢族抗日ゲリラが鎮圧された後、高山族の抵抗は5代総督の佐久間左()()()指揮下で徹底的な弾圧を受けている。

一九一九年(大正八年)、総督府から台湾軍司令部が独立し、総督の軍事指揮権はなくなり、以後は文官が総督となっている。これには朝鮮半島の事情も影響している。警察・軍隊を使った威圧的な武断政治に対する朝鮮人の民族的抵抗は、同年三月一日に始まる反日独立運動、三・一独立運動に発展する。日本政府は政策を転換して、「文化政治」を採用している。軍事と警察の分離、朝鮮語新聞の発行許可、政治への部分的参加を認めているけれども、警察力が増強され、朝鮮人への同化政策の徹底化といった強権的な支配構造は維持され続ける。一九二二年、台湾教育令と朝鮮教育令が施行され、台湾と朝鮮半島は内地と同様の教育システムに置かれるようになる。植民地では例外的な処遇が認められていたが、このときから、台湾と朝鮮半島に限って、この処遇が撤廃される。同化政策は日中戦争の開始後さらに強化され、朝鮮総督府は皇民化政策として朝鮮人の民族性を抹殺しようとしていく。その上、一九三六年(昭和一一年)には、日本の南進政策を進めるため、台湾総督府に武官総督が復活してしまう。

ただし、台湾の場合、この教育は漢民族に対してのみ行われているのであって、「生番」や「高砂族(現高山族)」と呼ばれた少数先住民族に対しては教育所を設置しただけである。日本政府・軍部は、支配地域において、白人を頂点にして中国人・朝鮮人、その下に少数民族という序列で政策を施行している。戦前の台湾は、アウストロネシア語族系の先住民族、さらに、十六から十七世紀ごろ、台湾海峡の対岸の福建省や広東省から移り住んだ漢族から住民が構成されている。彼らは、戦後、国民党と共に台湾に移り住んだ「外省人」と区別され、「本省人」と呼ばれている。先住民族は、漢族に融合・同化して、固有の言語や習俗がほとんど消失したケタガランやクバランなど十を超える「平埔(へいほ)族」、ならびに「高山族」とも称され独自の言語と文化を保ち続けているタイヤルやアミなど九つの「原住民族」とに分類される。教育所は上級学校と接続されない簡易の教育機関であり、樺太庁でも、アイヌやギリヤーク、オロッコといった少数先住民族に対して同様の教育機関が設置されている。一八九九年(明治三二年)の北海道旧土人保護法および一九〇一年の旧土人児童教育規程に基づき、北海道在住のアイヌに対してすでにこうした教育制度を適用している。満州でも、「五族協和」イデオロギーに基づき、一九四三年(昭和一八年)の学制改正によって「五族」に含まれる朝鮮民族の言語を次第に教育の場から追放する一方で、一九四一年に締結された日ソ中立条約に配慮して、ロシア語の教育を保証している。また、南洋庁の南洋群島では、公学校の次に簡単な補習科が設置されている。一九二二年(大正一一年)の台湾教育令と朝鮮教育令による教育も、中国人と朝鮮人を対象に行われていたのであり、植民地支配の正統性の基盤にかかわらないそれ以外の人々に対する支配はあそこまでの同化政策にまで至っていない。

一九一〇年代までは、台湾における現地人の就学率は低く、また総督府の方も現地人に対する教育に熱心ではない。欧米と比較して見劣りしないだけの学校を建設すればよいと考えている。けれども、大陸で辛亥革命が起き、近代的な教育への関心が現地人の間にも強まると、総督府は教育を普及させ、その内容を制限することで、独立運動を抑える政策に転換する。台湾と朝鮮半島を内地と同じ教育政策にした場合、試験で現地人が日本人を上回り、社会的地位の独占への不満が募ってくれば、支配を正当化できなくなる。そこで、「国語」が効力を発揮する。日本語で選抜試験を行えば、日本人が有利であるし、皇国史観や国体を試験問題にすれば、それを覚えなければならない。この価値観の下で、政府・軍部は、二つの植民地に対して教育を平等にしている。内地の教育教材も、それに伴い、反動化せざるを得ない。植民地支配の矛盾が内地の教育に影響を与えたのであって、内地の教育を植民地に拡大したのではない。

 

An example of life in old Korea

The girl wouldn't let me take her picture

Dongdaemun

Kimpo Airport

An old mn with a stick,in white Baji Chogori.

With a black katsu on his head

The taxi driver kept asking if I wanted a woman

Highway wa kassoro

Myongdong ST has no neon signs

Roadside Pillboxes with armed police in front

Kuni no hana wa Mukuge

There is a curfew from midnight till 4

Haikara na myongdong musume

From Busan you can see Tsushima

The speed limit for passenger cars is 37miles an hour.

Yakan no dorojo de no chusha wa chushato o tento suru koto

Korea has air raid once a month

Tokyo-Seoul kan wa yaku nijikan

People over 46 speak Japanese

(Yellow Magic Orchestra “Seoul Music”)

 

政府・軍部は自分たちの拡大政策が欧米列強による帝国主義的搾取とは違う主張するために、「植民地」という単語を法律用語に指定しない。一般的な場合、「朝鮮、台湾、関東州及南陽群島」と地名を列挙し、その他には、「外地」、「新領土」あるいは「特別地域」という呼称を用いている。この矛盾が植民地政策に反映される。植民地は、国際法上による規定に基づき、本国と異なった法が適用される。台湾と南樺太は戦争の結果、講和条約を通じて、領有している。また、朝鮮半島は大韓帝国の保護国化した後、韓国併合条約を強制調印させて、日本に組み込んでいる。さらに、中国東北地域は関東州租借地、ならびに南満州鉄道株式会社が行政代行する鉄道沿線の附属地、そして旧ドイツ領ミクロネシアの南洋群島は国際連盟による委任統治領である。中国東北地域は、事実上はともかく、植民地と必ずしも言えないが、他は、明らかに、植民地に相当する。台湾総督府と朝鮮総督府は天皇直属の機関であったため、内閣から独立した権限を保有している。それに比べると、樺太庁・関東庁・南洋庁の長官は知事よりやや上に位置する程度であり内閣への従属している。

台湾・朝鮮半島への植民地政策は、表面的には、列強によるヨーロッパ内部の支配に似ているが、前者にある父殺しが後者にはない。オットー・フォン・ビスマルクが首相に就任して以降、ドイツはポーランドに対して極端な言語統制に基づくドイツ化政策を行っている。公用語・裁判語・教育語・軍隊命令語はドイツ語に定め、ポーランド語を私的な領域以外許可しないという政策である。そのため、ポーランドでは激烈な反ドイツ闘争に至っている。ドイツによるポーランド支配には汎ゲルマン主義、あるいはロシア・フランス・オーストリアへの対抗意識が見られるが、日本の台湾・朝鮮半島支配は自分たちの過去の抹殺がある。

 

A Secret beyond the door

 (Falling into it now)

Release in camouflage

Flaming darkness in the distance

(Yellow Magic Orchestra “Camouflage”)

 

初代台湾総督府学務部長心得に就任した伊沢修二も、台湾に渡る前は、中華文明を乗り越えられた文明と見なしている。伊沢は一八七五年(明治八年)に愛知師範学科取調員として、ブリッジウォーター師範学校とハーバード大学で、ルーサー・ホワイティング・メーソンから音楽、アレキサンダー・グラハム・ベルから視話法教授している。伊沢は、日本最初の『教育学』(一八八二)を刊行し、一八八六年(明治一九年)には、文部省編集局長として『尋常小学読本』の作成を進め、一八九〇年に国家教育の推進を目的として国家教育社を結成、翌年に文部省を退官した後も、国立教育期成同盟会(一八九二)や学制研究会(一八九四)を組織している。一八九七年に台湾から戻った後、貴族院議員として学制改革を実施している。伊沢は、一八九五年、台湾に向かう前、『台湾教育談』において、「無文字の蛮族にあらずと雖も、今日の教育を見るとき蠢愚たる一動物の境界に沈み居る」と言い、表語文字(漢字は従来「表意文字」と見なされてきたが、近年、こう呼ばれる傾向にある。と言うのも、漢字は一字で一つの意味を持つのみならず、特に、漢文のような古典語においては、それがそのまま語として機能するからである)は、西洋で使われている表音文字に比べて、非効率であるから、漢字はカタカナに置き換えなければならないし、また儒教は非実用的教養にすぎないのであり、排斥すべきだと考えている。ところが、伊沢は、台湾に着任し、台湾の人々に接して、考えを改めていく。伊沢は、一八九七年、『台湾公学校設置に関する意見』の中で、「四書五経、斯ふ云ふものは、どうしても台湾人としては知らなければならぬ」として、漢字や漢文、儒教を教育内容に導入する必要性を説き、「台湾の人々はなかなか書が上手です。大概の日本人には、台湾人くらいに書ける人は少ない」と演説している。伊沢は、日本の勝利は軍事力の勝利にすぎず、文化的に勝利したわけではないのであって、中華文明が日本の文化の基盤であることを再認識している。伊沢は中華文明にしても、西洋近代文明にしても、直接、触れている。一八五一年(嘉永三年)に信濃の高遠(たかとお)藩の下級武士の長男として生まれた伊沢は藩校である進徳館で漢文を学んでいる。江戸時代、鎖国を続けていたため、多くの日本人は漢文学に接していたものの、それは言説として理解していいたにすぎない。伊沢にとって、当初、中華文明にしても、西洋近代文明にしても、想像の世界に属していたが、渡米して初めて西洋文明を実感し、台湾に渡って中華文明を再発見している。台湾の植民地支配の現場に立つ伊沢は、その結果、「混和主義」を掲げる。

中国の近代化の遅れが中国人の「重荷(Burden)」に起因することを伊沢を含めた脱亜主義者はまったく考えていない。中国は、周辺国の日本と違い、「朝貢貿易」と呼ばれる東アジアにおける経済行為の中心である。朝貢貿易は近代以前に中国が諸外国との間で行った独特の貿易形態である。古来、中国周辺の諸民族は、中国の優れた文化や豊かな物産を求めて貿易や交流を望み、中国は相手国の王が臣下となるのを貿易の前提条件としたことがその由来である。皇帝制度はそれを保証する権威であったため、その変革は経済的な混乱をもたらすことになりかねず、慎重にならざるを得ない。中国の政治・経済体制が東アジアにおける機軸だったのである。当然、先に西洋近代文明と接触していても、中国の近代化は、日本の場合以上に、困難である。

同様のことが、イスラム圏にも言える。近代の変化の対応に遅れた地域は本格的な中世を経験してきた地域である。近代において、中世をまったくもしくは本格的に体験してこなかったヨーロッパや日本、アメリカが世界的に台頭する。「日本とヨーロッパには奇妙な平行現象があって考えやすい。どちらも本格的な中世がなくて、ルネサンスがある。西洋史では扱わぬが、日本史なら江戸時代をさす近世という概念が、ルネサンスと近代とのつなぎに便利。中国やペルシアのような本格的な中世になるとこうはいかぬ。長安やバグダッドは別世界としか思えぬ」(森毅『時の渦』)。イスラム圏や中国が中世において世界の中心であったために、ヨーロッパや日本のような周辺と違い、その遺産と責務から、近代という変化への迅速な対応が困難だったのである。

すでに何度か言及してきたように、戦前の日本の植民地支配には屈折がある。欧米の植民地支配は「白人の重責(The White Man's Burden)(ラドヤード・キプリング)、すなわち近代文明の宣教であり、支配者と被支配者の関係は明確である。日本は、他のアジア諸国と比較して、たんに近代文明を欧米から先に取り入れていただけであって、日露戦争に勝利した日本を見て、マハトマ・ガンジーが「あれは日の丸ではない。ユニオン・ジャックだ」と言っているように、日本は被支配者にとって近代文明の媒介者にすぎない。けれども、脱亜入欧を果たした日本は東亜の共栄圏のリーダーシップをとり、日本人は「名誉白人の重責(The Honorary White Mans Burden)」を背負わなければならないと思い上がってしまう。一八五六年から六四年に渡る太平天国の乱が示している通り、中国の民衆の方が、列強の帝国主義に対して、日本以上に激しい抵抗運動を続けている。しかも、歴史的に、日本文化は中華文明の強い影響下にあったのであり、支配する側が支配される側に文化的に負っているのである。

国定教科書の編纂に関わった巌谷(いわや)小波(さざなみ)がつくった次のような詩『ふじの山』は、朝鮮半島を植民地にした翌年の一九一〇年(明治四三年)、『富士山』として文部省唱歌に取り入れられるが、当時の日本「国民」の優越感とその矛盾を表象している。

 

あたまを雲の 上に出し

四方の山を 見おろして

かみなりさまを 下に聞く

富士は 日本一の山

 

青空高く そびえ立ち

からだに雪の 着物着て

霞のすそを 遠くひく

富士は 日本一の山

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨゼフ・フォン・シェリングは、自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然であって、両者は根元的に同一であると言っているが、ロマン主義者にとって、ジャン=ジャック・ルソーが『告白』の中で精神とアルプスの自然との合一を書いているように、山は極めて重要な意味を持っている。実際、戦後になっても、皇族はしばしばワンダーフォーゲルを楽しんでいる姿をメディアを通じて「国民」にアピールしている。富士山を通じて日本人の優越感を抱いた精神を描いている。美しさではなく、富士山の高さを賛美しているのに、「日本一の山」となるのは、当時、富士山より標高が高い新高山(現玉山)が台湾にあったためである。富士山が「日本一」の象徴であるとすれば、それは一義的でなければならない。ところが、富士山がいかなる意味で「日本一」なのか不明確なままである。

『富士山』は小学校唱歌の一つであるが、唱歌というものの成立にも伊沢修二が深く関係している。一八七九年(明治一二年)、伊沢は、自らの提言によって設立された音楽取調掛(現東京芸術大学音楽学部)の掛長となり、恩師のメーソンを招いて、近代日本における洋楽の主流化=雅楽の周辺化を実行し始める。一八八二年から二年間かけて、メーソンの協力で『小学唱歌集』を編纂する。この中には、『蝶々』や『蛍の光』、『仰げば尊し』が含まれている。唱歌には世界各地の民謡に日本語の詞をつけた曲や文部省が作詞作曲した曲が含まれ、言文一致体が原則として取り入れられている。伊沢は子供たちが慣れ親しんできた民謡やわらべうたを排除し──当時、小学唱歌と違い、幼稚園で歌われていた保育唱歌は雅楽調だったが、小学唱歌に吸収されていく──、音楽教育を天皇制国家に柔順な児童を生産する道徳教育の一環と位置づけている。

この唱歌のコンセプトは演歌や軍歌に引き継がれるのみならず、朝鮮半島や台湾など旧日本の植民地でも、現地の言語による同様の折衷的な歌が歌われるようになっている。

また、雅楽の旋律だけでなく、雅楽の楽器も音楽教育から駆逐される。イスラム圏では決して誕生しなかったが、ベトナムからモンゴルまでの広い地域で、ヨーロッパで整備されたオーケストラ文化が生まれているのも、日本の帝国主義拡大の影響を受けている。

近代日本について、西洋が何世紀に亘って達成されてきたものをわずか一〇〇年で実現した変化の激しさを強調して、論じられることが多いが、ほかのアジアの地域の経験はそれ以上に激烈である。「たとえばタイ。低湿地を人工的に農地化し、それをいま工業化しようとしている。日本の何百年かの歴史を、百年ぐらいに圧縮して見る気分。あるいはインドネシア。火山国で、地味が豊かで農業生産性が高く人口が密集している。ヒンズー教、仏教、イスラム教と、異文化が流入して、それが多様化してインドネシア化する。こちらは日本の歴史をひろげた気分。もちろんそれらが日本と異質なことは当然。ASEANを見る視点でのイメージだけの話。イメージと言って、デザインと言っていない。APECで日本のリーダーシップなどと言われるが、『大東亜共栄圏』のことがあるので、あまりリーダーシップと言ってほしくない。それだと、米国や中国のような大国政治の構図のなかでのデザインになる。デザインを考え出すと文化よりは政治で、力の地図をえがきかねぬ。それよりは、文化のイメージをえがくほうが安全」(森毅『二十一世紀のアジア』)

日本では、明治まで、「音樂」は伝統的に器楽を指し、声楽音楽はその範疇として扱われていない。そうした伝統を持つ日本が幕末・明治に西洋音楽と接触したことは非常にタイムリーである。西洋音楽は、近代に至るまで、声楽ジャンルを中心に発展してきたが、資本主義が勃興する国民国家体制下、器楽音楽が全盛の「絶対音楽」の時代を迎えている。

笠原潔は、『西洋音楽の歴史』の中で、幕末・明治期における西洋音楽との接触について次のように述べている。

 

平安時代以降の日本では、「音樂」という言葉は、独自な用語法の伝統の下に用いられてきた。その場合、「音樂」という言葉は、「高尚な・異世界へと誘う・器楽風音楽」という意味で用いられてきたと言ってよかろう。そうした用語法は、「音樂」を意味する西洋近代語の単語がまず第一に声楽音楽を指してきたのと対照的である。

幕末に西洋音楽が流入してきた時、当時の日本人たちは、そうした用語法の伝統の下に、西洋の音楽を受け入れた。その場合、彼らが「音樂」という言葉で真っ先に受け入れたのは、西洋の器楽音楽であった。

そうした「音樂」という言葉の範疇に西洋の歌曲や歌劇までもが含められるようになったのは、明治時代に入ってからである。

 

西洋音楽史上、特殊な時期の音楽が日本の伝統と合致して受容され、その後、歌を中心とした音楽教育を通じて、「音樂」の意味が転倒される。明治以降の音楽教育では、声楽音楽がカリキュラムの中心に置かれ、器楽音楽は二の次である。声楽音楽は音楽の近代化=西洋化を象徴する。なおかつ学校で教える器楽音楽も三味線ではなく、西洋の楽器によって奏でられるものが選ばれる。音楽も脱亜入欧を果たさなければならず、それは子供の頃から体得すべきだというわけだ。

その上、子供は将来の労働力として資本主義によって発見され、国民国家体制の下では、小さな大人である。古典主義では、人格の完成を重視していたのに対して、ロマン主義は人格の成長を強調し、一個人の知的・感情的発展過程を描写する「教養小説」がドイツで書かれるようになる。上田万年(かずとし)は、一八八九年(明治二二年)、グリム童話を翻訳・紹介し、さらに、一九一一年(明治四四年)、アンデルセン童話の口語訳『安得仙家庭物語』を出版している。ロマン主義者は、人類を普遍的な観点から把握するよりも、自意識の優位を国家や民族に広げ、個々の国家や民族が持つ個別の歴史や特徴に目を向ける。英語の”nation”や”state”は十八世紀末にロマン主義と共に生まれた概念であり、日本語の「国家」や「国民」は十九世紀末、「民族」は二十世紀初頭にやはりロマン主義者が発明している。ナポレオン戦争における国民意識の高揚をきっかけに、グリム兄弟は民話や民間伝承を採集・研究して、各民族言語の使用を推奨し、ウォルター・スコットは歴史小説を創作している。同様の事態が、日露戦争以降、日本でも起きている。伊藤左千夫は近代化によって失われた風景を『野菊の墓』(一九〇六)に綴り、柳田國男は民俗学を創始し、森鴎外は歴史小説を書き始めている。

 

栄行く御代の民草我等

事業こそは種々かはれ

かはらぬものは心の誠

誠を守る商人我等

いでや見ませ朝な夕な

撓まず共にいそしむ我等

 

競ひの場のますらを我等

命のかぎり人には負けじ

忘れむ家を惜まじ身をも

力を頼む商人我等

いでや見ませ朝な夕な

撓まず共に戦ふ我等

 (森林太郎『横浜市立横浜商業高等学校校歌』)

 

 一八九八年(明治三一年)、第四代総督の児玉源太郎により後藤新平が民政長官に任命され、彼はアヘン・砂糖・ショウノウ・タバコなどの専売事業を促進、林業・鉄道事業の育成によって財源を確保し、台湾経営を軌道に乗せている。同年、初めて公学校のカリキュラムを規定した公学校規則が制定されたのに伴い、台湾でも日本語に関する教科科目がカリキュラムに導入されている。日本語科目は「国語作文」と「読書」だけであり、前者では台湾総督府編纂『台湾教科用書国民読本』、後者では文部省編纂『小学読本』や儒教の経書が教科書に選ばれている。『台湾教科用書国民読本』にはカタカナ表記による台湾語の翻訳がつけられ、経書の方では、まず台湾語、次に北京官語で読む過程になっている。日本語は漢文と一緒に教育され、書き言葉は漢字を使っている点から漢文に近いと判断されてカリキュラムに取り入れられている。

 ところが、一九〇四年(明治三七年)、公学校規則が改定されてから事態は一変する。旧規則においては、公学校教育の目的を「徳教ヲ施シ実学ヲ授ケ以テ国民タルノ性格ヲ養成シ同時ニ国語ニ精進セシム」だったが、新規則では、「国語ヲ教エ徳育ヲ施シ以テ国民タルノ性格ヲ養成シ」に変更されている。公学校教育の目的が、第一に、「国語」の教授になった結果、日本語科目は、日本語を教授するための「国語」と平易な漢文を台湾語で教える「漢文」に再編集され、前者は週十時間の授業時間が義務化されている。

日本は、植民地に対して、西洋近代文明の媒介者ではなく、完成者であると支配を正当化する根拠付けが不可欠となっている。そうしないと、日本文化の大きな根源である中華文明への言い訳ができない。確かに、近代文明は生まれたのは欧米であるが、それを完成したのは日本である。近代文明は日本によって再発見されたのだ。こうしたヘーゲル的な倒錯は、革新官僚が体現している通り、戦前を通じて見られるだけでなく。戦後にも生き残っている。日本が短期間で近代化を達成し、脱亜入欧を果たせたのは日本語を使っているからである。日本は東亜に近代化を伝播させるだけでなく、日本語を東亜に輸出しなくてはならない。戦後、多くは欧米で最初に開発された家電製品や自動車などで世界的に成功して経済発展を達成した結果、「名誉白人」としてアジアで最初の先進国入りという脱亜入欧を果たしたとき、戦前同様の図式に基づいて、日本的経営を輸出している。日本的経営が優秀だから、日本は驚異的な経済成長ができたとして、工場進出した東南アジア各地に、日本的経営を強要している。日本固有の文化を教化する際、天皇制は血統性が強く、また中華文明との影響なしにはありえないため、植民地における教育の支柱とするには不適当であると現場は判断している。そこで、日本語への過剰な意味づけが行われ、内地と植民地の合一性を日本語の共有に求めたのである。植民地政策の上では、天皇制よりも日本語の方が上位に置かれることになる。

「国語」は、現在では中国や韓国でも使われているものの、もともとは日本に特有の表現であって、日本語以上に、学校で教えられる科目を指す。この名称は、明治期の国民国家建設の過程で、アイヌへの弾圧、排外的なナショナリズムを背景に生まれている。国体の象徴としての「国語」の尊重を唱えたのが上田万年であり、学校教育における「国語科」の設置である。それ以前は「本邦語」や「邦語」、「日本語」などが用いられている。

日本を指し示す漢字として「和」・「邦」・「国」の三つがあるが、その中で、「国」の選択にも明確な政治的なイデオロギーが見てとれる。まず、「和」は朝鮮半島や大陸の人たちが日本を指して歴史的に使われ、「漢」や「洋」などとの相対性がある。次に、「邦」は、本来、繁殖した樹木を境界とする領域内の部族という意味がある。最後の「国」は囲い込まれた境域に由来し、封建的な大名や諸侯の支配地域として使われてきた通り、地理的・行政的区画単位を示す漢字である。「和」と「邦」が人のニュアンスが強いのに対して、「国」は、故郷の意味でも用いられているように、土地、それも支配された土地の意味がある。「国語」は土地と支配のイデオロギーに基づいた言語という意味を帯びている。

円地文子の父である上田万年は、帝国大学(現東京大学)和文学科在学中に、言語学講座の教師であり、日本語をアイヌ語や琉球語との関係で捉えようとしていたヴァシリー・ハル・チェンバレンに師事した後、一八九〇年(明治二三年)にドイツとフランスに留学している。一八九八年、東京帝国大学文科大学に国語学の講座を設置し、一九〇五年以後、定年まで国語学講座の教授を続けている。上田も、前島と同じく、表語文字の優位性を信じ、字音・仮名遣いの改訂、ローマ字の普及を推進している。

国語調査会によって国語が形成され始めるのは一九〇二年(明治三五年)である。文部省に国語調査委員会が設置され、標準語を目指す国語に関する規範を国家的プロジェクトとして制定されていく。この委員会の中心人物が上田万年であり、一八九五年に発表した『国語と国家と』において、彼は「国語は帝室の藩塀」や「日本語は日本人の精神的血液」であり、その「血液」によって国民としての一体性を実感させると言っている。国語には国民創出の役割と共に均質性・効率性を求める機能を見出している。一九〇〇年前後には、学校教育・法体系・電信・軍隊制度など均質な言語空間を創出する各種の装置が確立・普及し、上田は近代諸制度を日本語に担わせようとしている。彼は「一国家、一民族、一言語」が大日本帝国の特徴と捉え、それが近代化に有利であり、植民地諸民族に日本語の普及を正当化する論理として提示する。その上で、「東洋全体の普通語」、すなわち東洋における異民族間の共通の言語として日本語を位置づけている。上田は国語確立の方便として提起したのだが、帝国の言語としての条件でもあり、日本の帝国主義的膨張が続くにつれ、この主張は正統性の地位を占めるようになる。上田は、国語調査会を通じて、自説を展開し、「国語」であると同時に「東洋全体の普通語」として日本語の標準化、標準語の必要性を訴えている。このように日本語の標準語は国民国家としてだけでなく、植民地支配と密接な関係にある。

 

砂まじりの茅ヶ崎 人も波も消えて

夏の日の思いでは ちょいと瞳の中に消えたほどに

 

それにしても涙が 止まらないどうしよう

うぶな女みたいに ちょっと今夜は熱く胸こがす

さっきまで俺ひとり あんた思い出してた時

シャイなハートにルージュの色が ただ浮かぶ

好きにならずに いられない

お目にかかれて

 

今 何時? そうねだいたいね

今 何時? ちょっと まってて

今 何時? まだ早い

不思議なものね あんたを見れば

胸さわぎの腰つき

 

いつになれば湘南 恋人に逢えるの

おたがいに身を寄せて いっちまうよな瞳からませて

 

江ノ島が見えてきた 俺の家も近い

行きずりの女なんて 夢を見るようにわすれてしまう

 

さっきまで俺ひとり あんた思い出してた時

シャイなハートにルージュの色が ただ浮かぶ

好きにならずに いられない

お目にかかれて

 

今 何時? そうねだいたいね

今 何時? ちょっと まってて

今 何時? まだ早い

不思議なものね あんたを見れば

胸さわぎの腰つき

 

心なしか今夜 波の音がしたわ 男心誘う

胸さわぎの腰つき

(サザン・オール・スターズ『勝手にシンドバット』)

 

台湾の教員として新規則の制定に関与した山口喜一郎は、一九〇四年(明治三七年)、「新公学校規則を読む()」において、日本語の中には「国民の知識、感情、品性」のすべてが含まれており、日本語教育によって台湾人と日本人の「同情同感」が可能になり、「母子両地」が確かなものになると主張している。山口に従えば、日本人の「国民性」とは何か、あるいはそれを指し示す「知識、感情、品性」とは何かという問いは意味をなさない。日本人の「国民性」は日本語が体現している。日本語で語られれば、西洋近代文明であろうと、中華文明であろうと、天皇の勅語であろうと、日本人の「国民性」そのものになる。植民地支配における屈折は日本語によって改称されたのである。その上で、山口は日本語教授法として体験的に日本語を「体得」させる直説法、すなわち全教科目における教授用語の日本語化を推進する。教師は、台湾語を用いて、日本語を理論的に教えるのではなく、日本語を体に叩きこまなければならない。一九一〇年代前半には、総督府の刊行していた教科書から台湾語の対訳が削除され、教育現場より台湾語を完全に排除する。山口への批判は当時からすでに強かったが、日露戦争という時代の中、山口の意見は主導権を獲得する。正統性の欠落を日本語審美主義によって埋めざるを得ない。借り物の近代化を背景に、文化的に負っている中華文明を支配するのを正当化するには山口の主張は有効である。日本語審美主義として、日本の帝国主義は日本語の普及のために、行われていく。

標準語を志向する国語政策が対外的な必要性からとられた点は、これまでに引用してきた公文書の文体からも明らかだろう。戦前、公文書において言文一致体を採用していない。政治や司法、軍部、官庁は漢文訓読体で公文書を記している。しかも、古文書などでは濁点をつけなくても、濁音として読み、句読点もないが、原則的に、それを踏襲している。十一世紀頃になって、濁音のカタカナカに点をふる表記が登場し、さらにひらがなにも点をつけて清濁の区別をするようになったものの、現在使われている濁点の形と用法が決まったのは明治に入ってからである。詔勅で、濁点と句読点がつけられたのは、一九四六年一月一日に発表された「天皇の人間宣言」が初めてである。その政策を推進したいのであれば、前例を踏まえるよりも、まず為政者自らが率先して言文一致体を使ってしかるべきであろう。彼らは言文一致は神の死、すなわち国民国家・資本主義体制に欠かせない言文一致体ではなく、大陸の影響を色濃く残し、身分に基づく封建社会を引きずる漢文訓読体を公的な書き言葉と認定していたのである。帝国主義的政策を正当化するために、標準語を目指す国語を「国民」に普及させながら、権力中枢では、言文一致体を斥けている。なおかつ、政府は「音韻文字」の使用を推進しておきながら、兜町がカタカナの企業名の上場を許可するには、一九四九年のキャノンを待たなければならない。神の死の受容を途中でやめてしまった矛盾の結果、一九四六年の「米よこせ食糧メーデー」で、農村を巡幸する天皇を揶揄して、「詔書 ヒロヒト曰く 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食つてるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが林立することになる。

一九三〇年代以降、植民地では、宮城遥拝や神社参拝、日の丸掲揚といった学校儀式が質的にも量的にも重視されるようになり、さらに、中国や東南アジアの占有地でもこれが踏襲される。ジャワの学校では、毎朝の朝礼の際、宮城遥拝、日の丸掲揚、さらには「私どもは、大東亜の学徒です。大日本に従い、新しいアジアのために尽くします」という「新ジャワ学徒の誓い」を子供たちに斉唱させている。

 

The Lord’s my shepherd,

I’ll not want.

He makes me down to lie

In pastures green he leadeth me

The quiet waters by

 

My soul he doth restore again

And me to walk doth make

Within the paths of righteousness

E’en his own name’s sake

 

Yeh though

I walk through death’s dark vale

Yet, will I fear no ill

For thou art with me and thy rod

And start me comfort still

 

My table thou has furnished

In presence of my toes

My head thou dost with oil anoint

And my cup overflows.

(“23rd Psalm ”)

 

駒込武は、「教育における『内』と『外』()(佐藤秀夫編『教育の歴史』所収)において、日本語教育が<儀式>だったと次のように述べている。

 

植民地・占領地において、日本語教育は一種の<儀式>であったということもできる。それはまず何よりも身体的なレベルでの強制であり、身体的な感覚を通じて「同情同感」のきずな、一体感を醸成するための装置だった。さらに、日本語教育重視の方針のよって何を教えるのかという内容の問題が棚上げされたことに象徴されるように、<儀式>的な行為が何を意味するのかという問題は限りなくあいまいにされる傾向があった。<儀式>の意味への疑問が封じられる中で、共感のための共感、同調のための同調への圧力は自己増殖的に高まり、<儀式>の拒否は排除のための十分な口実となっていく。学校儀式と日本語教育に違いがあったとすれば、日本語教育が、日常的で惰性的な時間の中で延々と続く<儀式>であったということだろう。

考えてみれば、植民地教育のこうした特徴は植民地支配に特有な現象というよりも、近代日本の学校の本質的な側面を濃縮して表現したものとみることもできるかもしれない。欧米の植民地支配の場合は、宣教師達が学校教育の外で自ら「文明の宗教」と信ずるキリスト教をアグレッシヴに布教していたが、天皇制が擬似的な<国教>の地位を占めていた日本の場合は、学校が半ば<教会>の役割も兼ねていた。社会的な亀裂が顕著だった植民地支配の場合、そうした学校の<儀式>的な機能がさらに形式化しながら拡大していったと考えられるのである。

 

 近代日本の歴史は正統性の欠落を極端な儀式化によって覆い隠そうとすることで貫かれている。制度は儀式にすり替わる。儀式を通じて日本の精神が身体化されるという倒錯した教育に基づいて、日本「国民」は邁進していく。すべてを儀式化してしまうために、制度を変更しても、何も変わらない。日本の学校教育には、甲子園の野球大会を含めて、行進が溢れている。近代の兵士はマーチに合わせて行進するが、それはオスマン・トルコの軍隊が軍楽隊に合わせて行進してきた姿に影響されてヨーロッパに拡大している。近代以前の日本人は行進をしたことがない。歩き方は、ヨハン・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ同様、身分を表わしている。大名行列が通れば、農民がそろって歩くことなど許されず、土下座していなくてはならない。近代的な軍隊が成立した後、軍隊の行進が普及している。それは、日本では、学校によって強化される。近代日本は、国民国家・資本主義体制の根幹にかかわる神の死さえも、たんなる儀式にしてしまう。

 

前へならえ

右向け右

左向け左

休め

気をつけ

回れ右

ブルマー

トレパン

トレシャツ

ハチマキ

腕を胸の前に上げて

ケイレンの運動

 

Raise your arms above your head

Bring them down to shoulder height

Keep them straight and bend your elbows

Let your arms hang loosely down

With your back turned to the sunshine

Bend your body from the waist

Swing your arms right and left

And before you know it you'll be twitching

 

両手を上げて

その手を横に

第一関節、力を抜いて

体を倒して

左右に振って

もう一つおまけにまた振って

ケイレンの運動

 

Taiso taiso minna genki ni

Keiren keiren keiren keiren...

(Yellow Magic Orchestra ”Taiso”)

 

この儀式化への傾向をアレクサンドル・コジューヴは、『ヘーゲル読解入門』の中で、伝統的に日本に見られると指摘している。彼は、「歴史の終わり」の後、人々に残されている二つの生き方として、アメリカ的生活様式の追求、すなわち「動物への回帰」と並んで、日本的な「スノビズム」をあげている。コジューヴは戦後アメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼んでいる。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動、すなわち環境との闘争を経なければならない。一方、動物はつねに自然と協調して生きている。消費者の「ニーズ」に応える商品に囲まれ、メディアが提供する流行にのっているアメリカの消費社会はもはや「人間的」ではなく、「動物的」でしかない。「スノビズム」は、環境を否定する理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。コジューヴは日本的「スノビズム」の典型として「切腹」をあげている。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動、すなわち自然との闘争を経なければならない。ところが、「スノビズム」は、そうした環境を否定する実質的な理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」、すなわち儀礼的に、それを否定する行動様式である。スノッブは、「動物」と違って、環境と調和することを拒否する。否定の契機がなかったとしても、意図的に、環境を否定し、形式的な対立をつくりだし、その対立に耽溺する。「切腹」は、実質的には死ぬ理由がないにもかかわらず、名誉や秩序といった形式的な価値に基づいて、実行される。しかし、これはあくまで儀礼でしかなく、歴史を動かす力にはならない。

「切腹」がスノビズムであるかどうかは別にしても、十九世紀の半ば、イギリスの小説家ウィリアム・メイクピース・サッカレーの作品を通じてその言葉が普及したように、スノビズムは神の死と共に出現している。スノッブは、鈴木道彦の『プルーストを読む』によると、「一つの階層、サロン、グループに受け入れられ、そこに溶けこむことを求めながら、その環境から閉め出されている者たちに対するけちな優越感にひたる人々」である。封建制がまだ残っている十九世紀では新興のブルジョアジーがスノッブの中心だったが、大衆社会に突入した二十世紀になると、誰もが、程度の差こそあれ、スノビズムに染まっていく。近代日本のスローガンである脱亜入欧は典型的なスノビズムであり、まさに国家を挙げてスノビズムに邁進していたのである。

スノビズムに対抗する姿勢としてダンディズムがある。シャルル・ボードレールの『現代生活の中の画家』によると、ダンディーは精神主義や禁欲主義と境界を接した「自己崇拝の一種」であり、「独創性を身につけたいという熱烈な熱狂」であって、「民主制がまだ全能ではなく、貴族制がまだ部分的にしか動揺し堕落してはいないような、過渡期にあらわれ」、「頽廃期(デカダンス)における英雄主義の最後の輝き」である。近代日本は戦前には脱亜入欧、戦後になると対米追従というスノビズムに支配されてきたため、一般に、毅然とした態度のダンディズムヘの憧れが非常に強い。けれども、貴族制が完全に後退した二十世紀において、スノビズムがあまりに凡庸であったとしても、ダンディズムは陳腐なアナクロニズムにすぎない。そういったダンディズムを目指すこと自体凡庸なスノビズムであろう。「スノビズムか、ダンディズムか」という二項対立ではなく、両者の弁証法的な止揚が志向されないまま、ダンディズムを目指しながら、スノビズムが日本の外交姿勢として現在に至るまで続いている限り、過剰なまでの儀式化の傾向は根強く残る。

近代日本語の基礎を築いた二葉亭四迷自身が日本語を相対化するために、エスペラント語の普及を推奨している。彼はスノビズムに陥っていない。エスペラントは、一九〇六年に著わされた二葉亭の『エスペラントの話』によると、非常に文法・発音が簡単で、国際的なコミュニケーション手段であるだけでなく、ネイティヴ・スピーカーはいないから、エスペラントで表現すると、そこには話者のネイティヴな言語の「臭味」があり、狭量なナショナリズムを克服できる。けれども、二葉亭のように、言語を政治的な支配の同一性を強化するための儀式に狭めるべきではないと警告し、言語に関する新しい認識の提案をしたのは少数派にとどまってしまう。テオドール・W・アドルノは、『プリズメン』の中で、「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と言ったが、「日本の植民地支配以降、日本語を使うことは野蛮である」というテーゼが発せられなければならない。

漱石は、一九一一年(明治四四年)六月十八日長野県会議事院で行った講演『教育と文芸』において、明治維新以前とそれ以降の教育について次のように述べている。

 

よく誤解される事がありますので、そんな事があっては済みませんから、ちょっと注意を申述(もうしのべ)べて置きます。教育といえばおもに学校教育であるように思われますが、今私の教育というのは社会教育及家庭教育までも含んだものであります。

 また私のここにいわゆる文芸は文学である、日本における文学といえば先(まず)小説戯曲であると思います。順序は矛盾しましたが、広義の教育、殊に、徳育とそれから文学の方面殊に、小説戯曲との関係連絡の状態についてお話致します。日本における教育を昔と今とに区別して相比較するに、昔の教育は、一種の理想を立て、その理想を是非実現しようとする教育である。しこうして、その理想なるものが、忠とか孝とかいう、一種抽象した概念を直ちに実際として、即ち、この世にあり得るものとして、それを理想とさせた、即ち孔子を本家として、全然その通りにならなくともとにかくそれを目あてとして行くのであります。

 

さて当時は理想を目前に置き、自分の理想を実現しようと一種の感激を前に置いてやるから、一種の感激教育となりまして、知の方は主でなく、インスピレーションともいうような情緒(じょうしょ)の教育でありました。なんでも出来ると思う、精神一(せいしんいっ)(とう)何事(なにごとか)不成(ならざらん)というような事を、事実と思っている。意気天を衝()く。怒髪天をつく。炳(へい)として日月(じつげつ)云々という如き、こういう詞(ことば)を古人は盛(さかん)に用いた。感激的というのはこんな有様で情緒的教育でありましたから一般の人の生活状態も、エモーショナルで努力主義でありました。そういう教育を受ける者は、前のような有様でありますが社会は如何(どう)かというと、非常に厳格で少しのあやまちも許さぬというようになり、少しく申訳がなければ坊主となり切腹するという感激主義であった、即ち社会の本能からそういうことになったもので、大体よりこれが日本の主眼とする所でありました、それが明治になって非常に異ってきました。

 四十余年間の歴史を見ると、昔は理想から出立(しゅったつ)した教育が、今は事実から出発する教育に変化しつつあるのであります、事実から出発する方は、理想はあるけれども実行は出来ぬ、概念的の精神に依って人は成立する者でない、人間は表裏(ひょうり)のあるものであるとして、社会も己も教育するのであります。昔は公(こう)でも私()でも何でも皆孝で押し通したものであるが今は一面に孝があれば他面に不孝があるものとしてやって行く。即ち昔は一元的、今は二元的である、すべて孝で貫き忠で貫く事はできぬ。これは想像の結果である。昔の感激主義に対して今の教育はそれを失わする教育である、西洋では迷(まよい)より覚めるという、日本では意味が違うが、まあディスイリュージョン、さめる、というのであります。なぜ昔はそんな風であったか。話は余談に入るが、独逸(ドイツ)の哲学者が概念を作って定義を作ったのであります。しかし巡査の概念として白い服を着てサーベルをさしているときめると一面には巡査が和服で兵児帯(へこおび)のこともあるから概念できめてしまうと窮屈になる。定義できめてしまっては世の中の事がわからなくなると仏国の学者はいうている。

 

明治期の教育は実学を目指していたのに、斥けてきたはずの江戸時代の学問以上に儀式化してしまう。「少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし」と『文学論』(一九〇七)で書く漱石は日本文学ではなく、漢文学に向かっている。古代から明治維新に至るまで、漢学が中心的な学問であり、国学は近世後期に生まれたばかりの歴史の浅い学問にすぎなかったが、王政復古に伴って、国学者は政府に起用されている。ひらがなやカタカナを指す「仮名」は、平安期、漢字ならびに漢文を意味する「真名」に対する概念として使われている。他にも、「榊」のような日本独自の漢字も生まれている。和文はあくまで仮であって、漢文こそが真の文章というわけだ。日本文学の主流は漢文学であり、日本文学は漢文学の一種にすぎない。日本は中華文明の辺境にすぎず、日本文学は漢文学の強い影響下で形成されてきたのであり、下剤使われている「日本文学」という概念は近代化を通じて構成されている。国学者は漢学と新興勢力の洋学を国学の支配下に置く「皇学」を画策したものの、たんなる政治的主導権への欲しか持っていなかったため、理論的脆弱さばかりが目立ち、将来的な見通しを欠き、たちまち漢学派に蹴散らされている。漢学派と国学派の対立抗争は教育制度改革の停滞を招き、産業革命を成し遂げた欧米の先進的技術を支える政治・経済・文化の早急な導入を目的として、洋学を教育・文化政策において主流にすると政府は決定している。学問の面でも、神の死を迎えつつあったにもかかわらず、この原則が堅持されることなく、放棄されてしまい、空疎な儀式が強調されていく。

 森毅は、『むしろ洋魂和才』において、近代日本は、諸制度を西洋から輸入しながらも、その背景にある文化を顧みなかったと次のように述べている。

 

明治以来、西洋の制度をいろいろとりいれたけれど、最大の失敗は「和魂洋才」にあったと思う。制度を変えながらも、文化をとりいれなかった、ちぐはぐさにある。戦後教育だって、制度は変わっても、文化はむしろ過去への一元化を志向している。

制度を変えるからには、それに伴う文化の変化をイメージしなければなるまい。さまざまな価値を持った人たちが、それぞれに生きていくにはどうしたらよいか、それは洋魂に学ぶほうがよい。制度よりむしろ、そのことを考えてほしい。

多様化と自由化を肯定したうえで、どのような制度がありうるかと考えさえするなら、制度はどうあってもたいしたことじゃない。

 

文化の裏打ちがなければ、制度は儀式化する。和魂洋才といった傲慢かつ怠惰な姿勢がその事態を招いている。台湾に渡る前から伊沢修二は、近代化推進を掲げながら、忠君愛国の国民教育運動を推進しているが、これが明治維新のイデオロギーに相反するという認識が彼にはない。これは伊沢に限らず、多くの明治政府を構成したり、周辺に位置したりする人たちにも見られる。国民国家・資本主義体制を導入する際、すべての面で封建的発想を廃棄しなければならないのに、道徳イデオロギーになると、それに依存してしまう。文化的な観点から制度を考えるという発想が根本的に欠落している。こうした状況は現在にまで至っている。「政治は、まず制度を考える。制度が変わっても文化が変わらねば、教育の流れは変わらない」(森毅『制度より文化を』)

 

When I'm gone no need to wonder

If I ever think of you

The same moon shines

The same wind blows for both of us

And time is but a paper moon

Be not gone

 

Though I'm gone it's as though

I hold the flower that touches you

A new life grows

The blossom knows there's no one else

Could warm my heart as much as you

Be not gone

 

Let us cling together as the years go by

Oh my love my love

In the quiet of the night

Let our candle always burn

Let us never lose the lessons we have learned

 

Teo torriatte konomama iko

Aisuruhito yo

Shizukana yoi ni

Hikario tomoshi

Itoshiki oshieo idaki

 

Hear my song still think of me

The way you've come to think of me

The nights grow long

But dreams live on

Just close your pretty eyes

And you can be with me

Dream on

 

Teo torriatte konomama iko

Aisuruhito yo

Shizukana yoi ni

Hikario tomoshi

Itoshiki oshieo idaki

 

When I'm gone they'll say we were all fools

And we don't understand

Oh be strong don't turn your heart

We're all you're all we're all for all for always

 

Let us cling together as the years go by

Oh my love my love

In the quiet of the night

Let our candle always burn

Let us never lose the lessons we have learned

(Queen “Teo Torriate (Let Us Cling Together)”)

 

この儀式化は文学でも、同様であり、日露戦争が終わった一九〇五年(明治三八年)、島崎藤村は『破戒』を刊行するが、次のような口語文体が確立している。

 

 丑松は大急ぎで下宿へ帰つた。月給を受け取つて来て妙に気強いやうな心地になつた。昨日は湯にも入らず、煙草も買はず、早く蓮花寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日を過したのである。実際、櫂中(ふところ)に一文の小使もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。悉皆(すつかり)下宿の払ひを済まし、車さへ来れば直に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。

 

ここでは、活用語尾は過去形である「だ」に統一され、現在形は「体的見方」の場合に使われている。言文一致体は資本主義的価値観が浸透しているため、読者=語り手=登場人物の三者の関係が平等に見えなければならない。語り手は、この場合、「国民」、すなわち成人男性である。語り手は中性ではない。国民国家において、「国民」は公教育と常備軍を通じて生産されるが、戦前、女性に選挙権や高等教育への機会がなかったように、それはあくまでも健常の成人男性を意味しているにすぎない。登場人物と語り手が混在化することを通じ、読者も登場人物と一体化する。しかしながら、NHKTV番組『プロジェクトX』の語りが完全に過去形に統一されている通り、実は、語り手によって因果関係が整理されている。

 漱石は、『破戒』と同じ年に発表した『吾輩は猫である』において、過去形ではなく、現在形を中心に次のような文体で書いている。

 

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生まれたか頓と見當がつかぬ。何ても暗薄いじめじめした所でニャー/\泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間で一番獰惡な種族であつたさうだ。此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。然し其當時は何といふ考もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。但彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフハフハした感じが有つた許りである。掌の上で少し落ち付いて書生の顏を見たが所謂人間といふものゝ見始であらう。此の時妙なものだと思つた感じが今でも殘つて居る。第一毛を以て裝飾されべき筈の顏がつる/\して丸で藥罐だ。其後猫にも大分逢つたがこんな片輪には一度も出會はした事がない。加之顏の眞中が餘りに突起して居る。そうして其穴の中から時々ぷう/\と烟を吹く。どうも咽せぽくて實に弱つた。是が人間の飮む烟草といふものである事は漸く此頃知つた。

 

語り手は登場人物のスポークスマンではないし、因果関係を整理するつもりもない。『吾輩は猫である』は滑稽本のように見えるが、語り手が登場人物をからかうのではなく、むしろ、自分自身に対する諧謔がある。漱石は落語の語りを大胆に導入しているけれども、これは円朝の落語のパロディである。また、身分制から解放された「私」ではなく、「吾輩」を使っている点は、鴎外流の一人称小説や自然主義文学に対するユーモアである。他にも、手紙の候文、物理学的論文、山の手言葉、江戸弁などさまざまな文体を操っているように、国語だけを話さない語り手は「国民」ではない。つまり、『吾輩は猫である』は言文一致運動から自然主義文学に至るまでの日本文学全般のパロディなのである。

 

街の外れに 船乗りがひとり 酒を片手の 冒険話

行こう ぼくらも 七つの海へ 波に潜れば 不思議な旅さ

We all live in a yellow submarine Yellow submarine, yellow submarine

We all live in a yellow submarine Yellow submarine 潜水艦

 

みんな集まれ 深海パーティー バンドも歌う

We all live in a yellow submarine Yellow submarine, yellow submarine

We all live in a yellow submarine Yellow submarine 潜水艦

 

楽な暮らしさ 笑顔で生きて 空は青いし 渚は緑

We all live in a yellow submarine Yellow submarine, yellow submarine

We all live in a yellow submarine Yellow submarine 潜水艦

(金沢明子『イエローサブマリン音頭』)

 

藤村の『破戒』によって、日本近代文学=国民文学が始まる。近代的な自我の確立を背景にする近代文学は告白であるが、その告白は日本文学では儀式化する。それを通じて、近代的自我の確立が日本近代文学であるという神話が生まれる。藤村の『破戒』の主人公瀬川丑松は小学校教師である。丑松は、信州の書店で、猪子連太郎の『懺悔録』を購入する。猪子連太郎は、丑松と同じ被差別部落出身者であり、『懺悔録』はその出自を告白した書物である。丑松は告白という行為に惹かれてしまう。藤村は被差別部落問題という社会的な課題が題材であったにもかかわらず、告白という個人的な行為に重点を置いて描いている。告白という制度が先にあり、それを儀式として繰り返す。こうした傾向は国木田独歩の作品にすでに見られる。国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』の主人公岡本誠夫は「驚きたい」という「不思議なる願」を持っている。それは「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願」である。先に「驚き」という制度があり、儀式として体験する。告白が後に私小説になるのは、告白を儀式として捉えたからである。告白すること自体、すなわち告白という行為が重要なのであって、何を、いかに告白するかは問題にならない。告白を通じて、因習や権威を打破し、新しい道徳を創出するのではなく、告白するために、作家は古い道徳に依拠するようになってしまう。主観的で知的な告白は気分だけを書き綴る私小説になる。そこには近代的自我はなく、ただ儀式だけがある。

 

さあさあ ダンスのニューモード 座って踊る 名付けて 座 読書

リズムに合わせて ページをめくる しぐさ パラパラ 簡単 座 読書

これが噂のニューダンス 若い二人にいいチャンス 熱い恋のバカンス 落ちる餅

秋の夜半を 虫も注目 座 読書 人呼んで 座 読書

 

前代未聞 空前絶後 座って踊る その名も 座 読書

肩こり 神経痛 虚弱体質 効果適面 ペンタント 座 読書

これが噂のニューダンス 背筋伸ばし バランス グラグラ揺れる 茶ダンス あける口

お休み前に 一汗かきましょ 座 読書 も一つおまけに 座 読書 踊れば ホカホカ

(大瀧詠一『座 読書』)

 

日露戦争の勝利が告白を前面に押し出した自然主義の流行を生んでいる。歴史との断絶をもはや考慮する必要はない。日本の自然主義は人間と社会を自然科学的に観察すると言うより、身辺雑事を気分に基づいて描写する傾向が強く、そこから私小説が派生している。フランスの自然主義はオーギュスト・コントの実証主義に則り、写実主義に実験医学を筆頭にした自然科学的説明を加えて誕生している。確かに、徳田秋声の『黴』(一九一一)はは、進化論や優生学といった自然科学に依拠しており、エミール・ゾラに代表されるフランス自然主義の流れと合致している。もっとも、福井勝義の『東アフリカ・色と模様の世界』によると、東アフリカの部族社会の人々は、メンデルの遺伝の法則とは比較にならないほど牛の遺伝に関する複雑かつ詳細な知識を所有し、それを用いて牛の交配を進めているだけでなく、遺伝の認識を人の名づけにも援用している。日本の自然主義文学は自然科学への依拠が次第に後退していく。人間と社会のメカニズムを自然科学を基盤にして小説化するはずの自然主義文学は、日本語フェンティシズムへと変容してしまう。日露戦争以降、それ以前の文学が整理され、日本近代文学史のパースペクティヴが形成される。明治二〇年代までは欧米の諸制度を導入しつつも、日本の現状に合わせて変えていく試行錯誤の時代である。天皇制を神道と結びつけ、擬似一神教的な擬似国教としたのもその一つであり、それは言文一致運動として文学でも見られる。明治三〇年代に入ると、日本は帝国主義化し始め、中華文明を克服したという優越感が生まれた反面、台湾の植民地支配を通じて、世界史における近代日本の矛盾が顕在化する。支配のイデオロギーは文化に基づかなければならない。日本の伝統的な固有文化を探索したものの、それを日本語に求めざるを得ないほど苦しい。国語という概念はたんに国民国家日本の言語としての日本語を意味しない。国語は「東亜共通語」としての日本語を前提にしている。日本の固有文化は日本語そのものであり、欧米が帝国主義を通じて近代化を輸出しているように、日本は東亜にそれを文化として伝播する必要がある。そのためには標準化された言語を規定しなければならない。戦後になっても、変化の時代が到来し、日本人のアイデンティティが問われると、日本語を賛美し始めるのはこうした理由による。文学では、日清戦争以後のロマン主義が脱亜主義だったとすれば、自然主義は入欧主義である。日本「国民」は、世界に向けて、脱亜入王を告白したくてうずうずしている。西洋近代文明と中華文明の間に生きているという意識が日本「国民」の間で解消されたとき、日本近代文学が成立する。自然主義文学の主導権獲得によって自然主義文学が正統派として国民文学の地位を占め、日本近代文学が形成される。自然主義文学は私小説へと変容し、文壇が形成され、数々の文学賞が生まれていくにつれ、日本文学の儀式化は加速する。

 

Every day I open the window

Every day I brush my teeth

Every day I read the paper

Every day I see your face

 

In the gleam of a brilliant twilight

I see people torn apart

From each other

Maybe that's their way of life

 

Every day I ride in cars

Every day I watch TV

Every day I write my diary

Every day I go to sleep

(Yellow Magic Orchestra “Perspective”)

 

自然主義の文学における覇権の獲得はたんなる文学上の論争の勝利の結果ではない。極めて、政治的な動きによって帰結している。政治における権力闘争は正統性の争いであり、正統性のない政治権力は他の政治権力から承認されない。異端の政治権力は、政治の場では、ありえない。国語としての日本語が近代日本の正統性の基盤である以上、日本近代文学もそれと整合性がとれるように、政治的に決着させなくてはならない。

 

All the parts turn to words

All the words grow to secrets

No one knows what they mean

Everyone just ignores them

(Brian Eno “Sky Saw”)

 

政府・軍部にとって、植民地支配が進行していくにつれ、文学の重要性が増し、文学へ干渉し始める。帝国主義的支配にしろ、戦争にしろ、近代においては、言説によって正当化される。政府・軍部はプロパガンダをメディアを通じて流し、民衆はそれに熱狂する。「民衆は小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい」(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』)。日清戦争は利益線論によって正当化されている。日本の独立自衛のためには、主権戦のみならず、その安全と密接に関係する利益線を防衛する必要がある。大朝鮮国は近代化を推進しようとしているのに、清はそれを妨害している以上、日本は清と戦わなければならない。また、日露戦争の際には、南満州を義和団事変に乗じて占領したロシアはこの地域の貿易を独占し、閉鎖的であり、非文明国であるから、日本はロシアと戦わなければならない。両戦争は「国民」の間でこのように正当化されている。国語は電波メディアが未発達だった当時、教科書や新聞、雑誌、書籍といったプリント・メディアを通じて、普及し、国民文学によって強化しなければならない。一九〇七年(明治四〇年)六月、内閣総理大臣西園寺公望は、読売新聞社の竹腰三叉に相談した上で、自宅に文学者二十人を招待する。内閣総理大臣が文学者を招いたのはこれが初めての出来事であり、「雨声会」と呼ばれるこの会合は、以降、主客を交代して数回開かれている。出席者は徳田秋声、巌谷小波、内田魯庵、幸田露伴、横井時雄、泉鏡花、国木田独歩、森鴎外、小杉天外、小栗風葉、広津柳浪、後藤宙外、塚原渋柿園、柳川春葉、大町桂月、田山花袋、島崎藤村。人選に携わった近松秋江は、「卑しい文士風情が雨声会一夕の宴席に招待されることを無上の栄誉と感佩するのも無理はなかろう」と述懐している。父親から「小説なんか書いている道楽者はくたばってしめえ」と言われたのに対するユーモアとして、長谷川辰之助がペンネームを「二葉亭四迷」にした通り、当時の文学者の社会的地位は確かに低い。けれども、夏目漱石、二葉亭四迷、坪内逍遥は出席を断っている。漱石は「ほととぎす厠なかばに出かねたり」と一句添えて返答している。さらに、一九〇九年、小松原英太郎文部大臣は文学者を首相官邸に招いている。彼は国家による文学アカデミーである「文学院」を構想し、文学者を権力側に囲い込もうと考えていたが、この企ては失敗に終わる。言語の芸術である文学は、他の芸術以上に、政府・軍部の政策にとって、引き続き関心事となっていく。

出席者は自然主義文学に属する文学者が多い。『読売新聞』は『早稲田文学』や『文章世界』と並んで、自然主義文学運動を推進している。出席を断った漱石や二葉亭は、坪内逍遥は出席した幸田露伴同様に読売新聞社社員であるが、朝日新聞社に所属している。文学博士号を授与するという文部省の申し出を拒否した漱石に対し、一九〇七年(明治四〇年)十一月十七日付『読売新聞』は「変人」と評している。自然主義文学は党派性を生み、反自然主義文学との間で主導権争いを始める。この文学闘争はプリント・メディアの代理戦争である。プリント・メディアは二つの戦争報道によって部数を伸ばし、特に、日露戦争が読者市場を大幅に拡大したため、各新聞・雑誌は市場の占有を奪い合っている。一八九七年、尾崎紅葉が『金色夜叉』を『読売新聞』に断続的に連載を始めると、小僧や女中まで新聞の発売を心待ちするようになっている。さらに、一九〇七年に、漱石が『虞美人草』を『朝日新聞』に連載すると、小宮豊隆の『夏目漱石』によると、「三越では虞美人草浴衣を売り出す、玉宝堂では虞美人草指輪を売り出す、ステーションの新聞売り子は『漱石の虞美人草』と言つて朝日新聞を売つて歩くといふ風に、世間では大騒ぎをした」。成長を続ける出版産業は、活性化するにつれ、イノベーションが進み、印刷技術の発展はプリント・メディアの起業を安価にし、同人雑誌の出版を容易にしている。日本近代文学は、脱亜入欧の意識に沸く「国民」の中、帝国主義の正当化のために、標準語を目指す極端な国語教育政策を推進する政治家・官僚・軍部・メディアによって成立し、発展してきたのであり、文学者は、メディアの一員として、帝国主義に荷担している。自然主義文学の勝利は体制による認知によって決着する。自然主義文学は官製文学となり、国民文学の地位を手にする。自然主義は権力闘争に勝利し、日本文学の本流となる。自然主義文学を通じて形成される日本近代文学史は非主流派を反自然主義文学という範疇に入れる。漱石や鴎外は日本近代文学のメンシェヴィキにすぎず、自然主義文学の系譜こそ日本近代文学のボルシェヴィキになっていく。

 

俺と寝ろ 我 雑踏に消えろ

舌の根を勃て舐めくわえろ

婦女食わんど知恵熱

飲まず精で ちと鼻炎

うなされど願う慕情

 

生まれ変わろう 裏穴に入ぇろう

こぼれ汁からめて燃えろ

女上位”漏れる”って

騎馬上位”抜ける”って

異常マラ食べさす裸女

 

闇の土手 下の毛

増えると いい子 丸刈りだ

俺知らんど 裂け目見えるど

もういい…

¿Quien sera? ¿Quien sera?

そう メロメロで エロエロで

ゲロゲロなる 我々たる倒錯

 

俺と寝ろ 我 雑踏に消えろ

舌の根を勃て舐めくわえろ

婦女食わんど知恵熱

飲まず精で ちと鼻炎

入れさせと願う慕情

 

闇の土手 下の毛

増えると いい子 丸刈りだ

俺知らんど 裂け目見えるど

もういい…

¿Quien sera? ¿Quien sera?

そう メロメロで エロエロで

ゲロゲロなる 我々たる凌辱

 

生まれ変わろう 裏穴に入ぇろう

こぼれ汁からめて燃えろ

女上位”漏れる”って

騎馬上位”抜ける”って

異常マラ食べさす裸女

うなされど願う慕情

(サザン・オール・スターズ『マイ フェラ レディ』)

 

 自然主義文学は流行していたものの、反道徳的であるという非難も強かった状況に対して、漱石は、『教育と文芸』において、自然主義の克服について次のように述べている。

 

さてかく自然主義の道徳文学のために、自己改良の念が浅く向上渇仰の動機が薄くなるということは必ずあるに相違ない。これは慥(たしか)に欠点であります。

 従って現代の教育の傾向、文学の潮流が、自然主義的であるためにボツボツその弊害が表われて、日本の自然主義という言辞は甚だしく卑しむべきものになって来た。けれどもこれは間違である。自然主義はそんな非倫理的なものではない、自然主義そのものは日本の文学の一部に表われたようなものではなく、単に彼らはその欠点のみを示したのである。前にも言った通り如何に文学といえども決して倫理範囲を脱しているものではなく、少くも、倫理的渇仰の念を何所(いずこ)にか萌(きざ)さしめなければならぬものであります。

 人間の心の底に永久に、ローマン主義の英雄崇拝的情緒的の傾向の存する限り、この心は永存するものであるが、それを全く無視して、人間の弱点ばかりを示すのは、文学としての真価を有するものでない、片輪な出来損いの芸術であります。如何に人間の弱点を書いたものでも、その弱点の全体を読む内に何処にかこれに対する悪感とか、あるいは別に倫理的の要求とかが読者の心に萌え出づるような文学でなければならぬ。これが人心の自然の要求で、芸術もまたこの範囲にある。今の一部の小説が人に嫌われるは、自然主義そのものの欠点でなく取扱う同派の文学者の失敗で、畢竟過去の極端なるローマン主義の反動であります。反動は正動よりも常規(じょうき)を逸する。故にわれわれは反動として多少この間の消息を諒(りょう)とせねばならぬ。

 さて自然主義は遠慮なく事実そのままを人の前に暴露し、または描き出すため種々なる欠点を生ずるに至りましたが、これを救うは過去のローマン主義を復興するにあらずして、新ローマン主義ともいうべきものを興(おこ)すにあろうかと思う。新ローマン主義というも、全く以前のローマン主義とは別物である。凡(およ)そ歴史は繰返すものなりというけれども、歴史は決して繰返さぬのである、繰返すというのは間違である。如何なる場合にも後戻りをすることなく前へ前へと走っている。

 教育及び文芸とても、自然主義に弊害があるからとて、昔には戻らぬ。もし戻ってもそれは全く新なる形式内容を有するもので、浅薄なる観察者には昔時(せきじ)に戻りたる感じを起させるけれども、実はそうではないのであります。しこうして自然主義に反動したものとするならば、新ローマン主義ともいうべきものは、自然主義対ローマン主義の最後に生ずるはずである。新ローマン主義というとも決して、昔のローマン主義に返ったのではない、全く別物なのであります。

 即ち新ローマン主義は、昔時のローマン主義のように空想に近い理想を立てずに、程度の低い実際に近い達成し得らるる目的を立てて、やって行くのである。社会は常に、二元である。ローマン主義の調和は時と場所に依り、その要求に応じて二者が適宜に調諧(ちょうがい)して、甲の場合には自然主義六分ローマン主義四分というように時代及び場所の要求に伴うて、両者の完全なる調和を保つ所に、新ローマン主義を認める。将来はこうなる事であろうと思う。

 昔の感激的の教育と、当時の情緒的なローマン主義の文芸と今の科学上の真を重んずる教育主義と、空想的ならざる自然主義の文芸と、相連って両者の変遷及び関係が明瞭になるのであります。かくして人心に向上の念がある以上、永久にローマン主義の存続を認むると共に、総ての真に価値を発見する自然主義もまた充分なる生命を存して、この二者の調和が今後の重なる傾向となるべきものと思うのであります。

 近頃教育者には文学はいらぬというものもあるが、自分の今までのお話は全く教育に関係がないという事が出来ぬ。現時の教育において小学校中等学校はローマン主義で大学などに至っては、ナチュラル主義のものとなる。この二者は密接なる関係を有して、二つであるけれどもつまりは一つに重なるものと見てよろしいのであります。故に前(ぜん)申した通り文学と教育とは決して離れないものであるのであります。

 

「過去のローマン主義」は「空想に近い理想を立て」、「人間の弱点」を認める自然主義にとって代わられたが、自然主義は「遠慮なく事実そのままを人の前に暴露し、または描き出すため種々なる欠点を生ずるに」至ってしまっている。「過去のローマン主義」が行きすぎたように、自然主義もその「反動」として急進的になりすぎている。けれども、自然主義に問題があったとしても、「歴史は決して繰返さぬのであり」、「過去のローマン主義」に回帰することはできない。自然主義が「ローマン主義」への反発によって文学的なヘゲモニーを獲得し、無軌道になっているのは健康的ではない。「社会は常に、二元」であって、「ローマン主義」と自然主義の弁証法的な止揚により、「新ローマン主義」が生まれるだろう。「新ローマン主義」は「過去のローマン主義」と自然主義に対するユーモラスなパロディである。漱石は、素朴な「昔時のローマン主義」が頓挫した現実に直面しても、「自然主義」の欠点に陥らず、「理想」を生き延びさせる知恵を身につけた「新ローマン主義」を会得すべきだと提案している。

 

Hi everybody

We are No1! I think so. Rally.

 

Tighten up Takahashi! Sake nome Sakamoto!

Hurry up! Up! Up!

 

Oh yeah! Here we go! Come on everybody! Your name?

Sake nome Sakamoto! Oi! Oi!

Japanese gentlemen stand up please! Oi!

 

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please!

 

Come on! Saiko! Come on!

Oi! Oi! Oi! Oi!

Oi! Japanese gentlemen stand up please! Oi!

 

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please! Oi!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please! Oi!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please! Oi!

 

Here we go again!

 

Do the tighten up!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please!

Do the tighten up! Japanese gentlemen stand up please!

Oi! Oi! Oi!

(Yellow Magic Orchestra “Tighten Up(Japanese Gentlemen Stand Up Please!)”)

 

漱石の調停案にもかかわらず、「新ローマン主義」は登場せず、自然主義をより急進的にし、「遠慮なく事実そのままを人の前に暴露し、または描き出す」私小説の文学界におけるヘゲモニーが確立する。その素地は藤村にすでに見られる。藤村は自作を私家版の緑蔭叢書シリーズとして出版し、売上金がすべて自分に入るようにしている反面、売れなければ損をすることになるため、センセーショナリズムに走らざるをえない。私小説の主人公の原型は二葉亭の『浮雲』の内海文三であり、それはツルゲーネフの作品の主人公、すなわち「余計者」から派生している。プーシキンのオネーギンに由来し、西欧の先進的な知識を身につけながらも、ロシアの民衆をよく知らないために、その能力を発揮できず、倦怠感と猜疑心にさいなまれる行動しない人物である。漱石は、『それから』(一九〇九)の長井代助のように、「余計者」を高等遊民としてユーモラスに作品で描いている。『吾輩は猫である』の語り手、すなわち「猫」は「余計者」のパロディであって、漱石の「余計者」のような主人公はその系譜上にある。漱石とは違い、私小説の場合、読者は語り手を配慮して読む姿勢が要求される。読者は語り手に従わなければならない。私小説は三人称で記述されているケースが多い。近代小説では、語り手と主人公は共犯関係にあり、読者はこの共犯関係を共有することで成立する。しかし、三者は別の存在である。他方、私小説においては、語り手と主人公が同一犯であって、読者も同一犯でなければならない。告白の場合、語り手は主人公と同一であるけれども、読者との間に明確な一線が引かれている、告白が読者に差異を主張するとすれば、私小説は同一を強いる。読者は作品を読むと言うよりも、同一犯になるために、作品のモデルや背景を知ることが求められる。私小説は第三者にチェックされねばならない市場経済的認識の導入を拒否している。証券の民主化が実施されていく時代には、作者の特権も失われ、私小説は衰退せざるをえない。私小説は日本語に過剰に付けられた「同情同感」に基づいて成立しているのであり、作品読解は山口喜一郎の方法と同じである。日本近代文学は山口喜一郎の日本語観と合致している。私小説の誕生の原因を日本語の言語的な特性や日本文化に求める議論があるが、これは誤謬である。ロシア語にも、日本語と同様に、主語のない無人称文・普遍人称文・不定人称文があり、日本語と同様の意味で主語がない言語も、カンボジア語のように、少なからずある。また、地縁・血縁に支えられた世間や大家族主義は世界的に広く見られる制度である。さらに、曖昧さは日本語に限った現象ではない。主語が明確な言語の英語では、主体性を尊重するために、アドヴァイスをしたり、申し出を断ったりする際に、婉曲な表現を用いる場合が少なくない。提案に対して「No」という無礼な物言いはまずしない。ただ、私小説では、判断の説明を省く傾向があるのに対し、英語において、そういう時、説明を尽くすことが不可欠である。「私小説では、その作者の生活がいかに細かく描写されていても、その中心になるものが抜けているという印象を我々が受ける場合が多い。作者が、不幸で一人ぼっちで、あるいは社会から締め出されているということはわかっても、その人間が他の同じように神経質な人間とどう違うかはっきりしない」(ドナルド・キーン『子規と啄木』)。漱石は言文一致体で書いても、当て字や造語を多用する彼の文体は国語ではない。漱石は国語とドメスティック文学に対抗している。多種多様なジャンルと文体を用いた漱石の試みは、いかなるものであっても日本語で書けば日本文学になるという認識に対するユーモアである。「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」(藤村『夜明け前』)。漱石は、『文学論』において、「文学とは如何なるものぞと云へる問題」を検討している。自然主義文学以降、文学が儀式化してしまい、この問いは欠落する。帝国主義化と私小説の隆盛は平衡している。経済力を背景に日本の優位が叫ばれた一九八〇年代、日本的経営が日本の固有文化であると工場の海外建設と同時に盛んに輸出されていたが、その時にも、私小説的作品が評価されている。私小説は、理念的な矛盾を軍事力や経済力といった現実的な事実で覆い隠すための儀式を提供するため、日本文学が手放したくない文学ジャンルである。私小説はドメスティックな文学に見えるが、実は、それを可能にしているのは極めて生臭い政治的・経済的背景なのである。

 

Modern things from Germany

Modern things from Japan

Modern things from Italy

Fransois Sagan

Beautiful things from Paris

Beautiful things from New York

Beautiful things from Berlin

All over the world

Tape Decks, Lounge chairs, Beatle books, Tarbo U

You can see them in magazines

An An” and “Elle Japon”

Immaculate photography

Everything looks brand new

I always wonder who buys these things

And what those people are like

I know I’d like to have these things

And I think I’m fine.

TVs, Ashtrays, Flat Wares, Modulator

System and packaging product design

Why doesn’t everyone like these things

When they’re part of our time.

Modern things from Germany

Modern things from Japan

Modern things from Italy

All over the world

All over the world

All over the world

All over the world

(Hajime Tachibana “Modern Things”)

 

この儀式化した日本近代文学が台湾でも規範になる。植民地獲得まで、日本文学の読者はネイティヴ・スピーカーに限られていたが、それ以降、読者には日本語の非ネイティヴ・スピーカーが含まれるようになる。日本語で文学作品を発表することは日本の帝国主義政策の荷担につながっていく。台湾の近代文学は中国の五・四運動と日本の大正デモクラシーの影響を受けて、一九二〇年台に誕生している。大正デモクラシーは大日本帝国憲法体制内での民主化運動であり、一九一八年(大正七年)、夏の米騒動をはさんで、前期と後期にわけられる。非立憲的な桂太郎内閣打倒のスローガンを掲げながらも、日露戦争講和への反対運動として始まった「外には帝国主義、内には立憲主義」の理念に指導された全国的な都市民衆の運動であり、日本帝国主義の問題は問われていない。台湾総督府による日本語政策のため、台湾の近代文学は日本語作品と中国語作品が同時に創作されるという特色を持っている。日本語小説が発表される中、中国語小説は、一九二六年(昭和一年)頃から、頼和(らいわ)らが創作を始めている。日本語作品は言うまでもなく、中国語作品も日本の近代文学の影響を色濃く示している。

一九三〇年代に入ると、台湾文学はこの二つの流れがさらに発展する。中国と台湾をめぐる民族自決を動機付けにした郷土文学論争が起こり、台湾語による創作が試みられ、他方、張(はり)文環(ぶんかん)らが、一九三三年、純文芸誌『フォルモサ』を東京で創刊し、固有の台湾文化の創造を主張している。日本文壇と連動し、彼らの文学活動は台湾島内の文学者に大きな刺激を与え、一九三四年五月に台中で初めて全島的規模の台湾文芸連盟が結成される。台湾人作家にとって、植民地の実態を描き、日本の中央誌に発表することが目標となり、一九三〇年代の半ばには、楊逵(ようき)、呂赫若(ろかくじゃく)、龍(りゅう)瑛宗(えいそう)らが植民地の作家として日本の中央文壇に登場している。また、周(しゅう)金波(きんば)や陳(ちん)()(ぜん)、王(おう)(しょう)(ゆう)は民族やアイデンティティを問う皇民文学を発表している。けれども、そうした路線対立に加え、総督府の厳しい検閲により、白話文による近代文学は壊滅状態に追い込まれる、一九四〇年代に入り、太平洋方面で戦争が始まると、南方基地としての台湾の重要性が増し、文芸雑誌も整理統合され、「大東亜戦争への文学奉公」をスローガンにする『台湾文芸』が台湾文学奉公会より創刊される。これは、台湾日日新聞社に勤務する作家西川満を中心に結成された台湾文芸家協会が支えられており、そこには台湾帝国大学の教官や台湾総督府の官僚、文芸愛好者が所属している。この雑誌に限らず、台湾人作家もいたものの、ほとんどが日本語による作品を発表している。日本の占領が終わると、公用語から日本語は一掃され、その上、国民党による独裁体制が強化されていく中、呉()濁流(だくりゅう)を代表とする日本語で創作していた戦前・戦中の多くの台湾人作家は言語の切り替えに対応できず、苦悩することになる。

 

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵カス如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ大平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排儕互ニ時局ヲ亂リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宣シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

 

御名御璽

昭和二十年八月十四日

(『終戦ノ詔勅』)

 

一九四五年八月十五日、ポツダム宣言受諾により、大日本帝国は植民地を放棄する。植民地支配は終わったにもかかわらず、「国語科」という名称は改称されず、日本語を無批判的に賛美する本がベストセラーになり、文学者が何の留保もなく次のように言う時、その帝国主義的政策の中核を担った日本語の体質が今も続いていることを示している。

 

ただひとつの書きかたを、年を重ねるにつれて辛抱強く成長、変化させてゆく、そういう書きかたに憧れながら、自分にはそれができないと自覚するようになったのは、この詩集に収められた作品を書くようになってからである。詩史、文学史というようなものに無関心で書き始めた私は、自分の書くものの縦のつらなりよりも、むしろ横のひろがりのほうに関心がある。

後世をまつという気持ちは私にはなく、私はもっぱら同時代に受けたい一心で書いて きた。それも詩人仲間だけでなく、赤んぼうから年よりまで、日本語を母語とする人々すべてにおもしろがってもらえるような詩を書こうとしてきた。私にあるのは、ひどく性急な野心の如きものだろうか。だが、その野心を支えたのは、私自身ではない。私をはるかに超えた日本語の深さ、豊かさなのだ。

(谷川俊太郎『朝のかたち』)

 

Ue wo muite

arukou.

Namidaga koborenai youni

Omoidasu’ haru no hi

Hitoribocchino yoru.

 

Ue wo muite

arukou.

Nijinda hoshi wo kazoete

Omoidasu’ natsu no hi’

hitoribocchino yoru.

 

Shiawase wa kumo no ue ni’

Shiawase wa sora no ue ni.

 

Ue wo muite arukou.

Namidaga koborenai youni

naki nagara’

aruku’ hitoribocchino yoru.

 

Omoidasu’ aki no hi’

hitoribocchino yoru.

 

Kanashimi wa hoshi no kageni’

Kanashima wa tsuki no kageni.

 

Ue wo muite arukou.

Namidaka kobore naiyouni’

Naki nagara’ aruku’

hitoribocchino yoru.

 

Hitoribocchino yoru.

(Kyu Sakamoto “Sukiyaki”)

 

ああ、日本はいい国だなあ

(Yellow Magic Orchestra ”The End of Asia”)

〈了〉

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